真夜中の逃亡 3

(3200字)

ふたりは逃亡した。マーくんの母はぼくが学校の校庭で拓也や服部やその他のガキや女子らとボールをぶつけあったり駆け回ったりしていると、派手な格好で現れ、ぼくらの注目をひいた。かなり取り乱していて、だれかを探している様子だった。髪が乱れ、サングラスは場違いに輝いていた。母はぼくを探していたらしかった。ぼくを見つけるとサングラスを取って駆けてきた。母はあせっていて、ハイヒールに足を取られそうだった。「マサハルがいなくなったのよ」と母は言った。赤いパンツスーツの生地の匂いが化粧に混ざって鼻についた。ぼくは母の躍動感に圧倒されて何も言葉が出てこなかった。ぼくの周りには人だかりが出来ていた。サッカーボールが足もとに転がってきても、母は気にも止めなかった。ぼくを差し置いて女と逃亡するなんて、もうこれでマーくんも終わりだな、とぼくは思った。こんなにたくさんの証人がいては首はつながらない。ぼくはもうとっくに分かっていた。「それが清ちゃんも一緒らしいのよ」と母が言うと、周りからどよめきが起こった。こんなのがぼくらの一番のお気に入りの事件なのだ。みんなそこら中に言いふらそうとそわそわしながらかたずをのんでいた。気の早いガキはもうプールの方へ駆け出していた。ぼくは新聞記者になってガキどもの期待に応えてやった。細かいいきさつや、メモはなかったかと、まさにぼくの一挙手一投足にみんなが注目した。ぼくは得意になっていた。母に手を握られて、駐車場の外車に乗り込み走り去るまで、ガキたちが見送ってくれた。彼らの尊敬を一身に背負い、母の頼みはぼくだけって感じで。でも、ぼくは追跡に駆り出されたものの、ぼくに出来ることは何もないように思えた。星野のいたコーヒーハウスで、ぼくらは清ちゃんのお母さんと合流した。

清ちゃんのお母さんは清ちゃんみたいにおとなしい感じの人だった。でも今回の事件ではおとなしいだけではいけなかった。清ちゃんのお母さんも取り乱し、困惑していた。青い顔をしていて、スーパーマーケットでのパートの格好そのままだった。ぼくはソーダ水を、ふたりはアイスティーを前に、テーブルでは様々な事情が交錯していた。清ちゃんのお母さんは、てっきり清ちゃんがマーくんの家に泊まっているものと思っていたらしい。マーくんの母は、マーくんがぼくの家に泊まっているのだと思っていた。それを聞いてぼくはいい気持ちがしなかった。清ちゃんの母の話にも、マーくんの母の話にも納得できない所があった。ぼくは指摘しなかったけど、きっと清ちゃんのお母さんはだれかと付き合っていて、清ちゃんが家にいないことが好都合で、マーくんの母に確認もしなかったのだと思う。電話をした時、マーくんが出て、お母さんに代わってくれない?と言ったそうだけど、マーくんの母はいつも通り留守だった。マーくんの母がいつも夜から朝までほとんど家にいないのは、ぼくも知っていた。マーくんの母は朝になって玄関かどこかで置き手紙を見つけたのだろう。警察にふたりは叱られるな、とぼくは思った。手紙には立派なことが書かれていた。

「ぼくと清子は、ふたりで生きていきます。絶対に追わないでください。」

そしてふたりの署名も入っていた。その場の空気は、重苦しいというより、乱れていた。警察に連絡したら?と言ったのはぼくだった。一瞬、大人ふたりの目が合った。そうね、としばらくして呟いたのは、清ちゃんのお母さんだった。マーくんの母も反対するわけにはいかなかった。オーストラリアに単身赴任している父に知られるのが怖くても。ぼくはいつかマーくんから、オーストラリアと聞いて、開いた口がふさがらなかったのを覚えている。ぼくにはどんなに遠くなのか、想像もつかなかった。まさかそこに行く人が近くにいるのはなおさら。「オーストラリアか」とぼくは言った。「そうだ、ふたりはきっとオーストラリアに行ったんだよ」マーくんなら行けると思った。清ちゃんのお母さんの驚き方と、マーくんの母の反応の違いは面白かった。「まずは警察に連絡するのが先ね」マーくんの母がそう言って、お開きとなった。コーヒーハウスの入口で、麦わら帽子をかぶった星野と出くわした。

星野は耳にウォークマンをつけて、ガムをかんで、口紅をひいて、赤いサングラスをかけて、自分だけにしか聞こえない音楽に合わせて体を動かしていた。立ち止まると足でリズムを刻みながら、ガムをくちゃくちゃとやった。ぼくが口火を切った。「マーくんと清ちゃんが逃亡したよ」さすがの星野も少し反応を見せた。ガムをかむ口もゆっくりになったし、足のリズムも今にも止まりそうだった。星野はガムをペッと吐き出すと、ウォークマンを耳から取って、サングラスをはずした。星野はやっぱり学校のガキどもとは違った。目はにやりとして、ふたりの行為を讃えるかのように口もとがゆるんだ。とうとうやったか、と言いたげだった。「カケオチっていうのよ、それ」と星野は言った。「知ってるよ、帰ってくるかな」「馬鹿ね、帰ってくるわけないじゃない、カケオチしたのよ」星野との逃亡の話はそれだけだった。星野の勝ち誇ったような笑い声を聞きながら、真夜中に逃亡していくマーくんと清ちゃんの姿が目に浮かんだ。ぼくは意味もなく笑い出していた。突然降りだした雨も、ぼくは楽天的に受け止めた。ぼくは急速に星野と仲が良くなったような気がした。ぼくらは走って雨のしのげる場所を探し始めたけど、ぼくはいっこうに雨に濡れても構わなかった。結局、ぼくの住む公営住宅団地の駐輪場まで来て、そこに入った。雨は頭上のトタンにさえぎられ、音を立てていた。空は急速に雨雲に覆われ、辺りは一気に暗くなった。星野は麦わら帽子を取った。シャツが濡れて乳首の形がふくらんだ胸の突端に浮き上がっていた。ぼくは勃起した。完全に星野に見抜かれているような気がして恥ずかしかった。ぼくは裏庭の、だれにも見えない所に行って、星野とエッチをしたかった。ぼくが恥ずかしげもなく星野の目を見ると、「駄目」と言われた。それから星野は、勃起してるんでしょ、とわざわざ口にしなくてもいいことを暴露して、ぼくが地面を見て赤くなるとまた笑い出した。ぼくは最初はその笑い声に不快感を覚えたけど、やがて星野に乗った方がいいと思ってぼくも負けないくらい笑った。

特別な関係になった気がした。でもそれはとても一時的なものに思えた。ぼくは星野を家まで送って行った。コンビニの角を曲がった所で、星野はここまででいいと言った。その表情はいつもと違って見えた。ぼくは星野の後をつけた。星野の家が立派な屋敷だと思っていたぼくは、壊れかけた船のような家に星野が入っていくのを見てびっくりした。表札には確かに「星野」とあった。木の板に書かれていて、墨汁の文字が雨に濡れ、下に垂れていた。そこでぼくは彼女のいい服や、サングラスや、麦わら帽子や、そういうものはみんな男たちに買ってもらってるんだなと思った。金欠のぼくには用はないってわけだ。彼女はホラばかりかましていた。自分を金持ちだといつも言っていたから。それにみんなも納得していた。朝、待ち伏せして星野の家の前で星野をつかまえた。それでぼくの威信が失われるとも知らずに。星野は三秒くらい止まっていた。でも鼻をつんと尖らせると、ぼくの所まで来てにらみつけた。ポストから新聞を取ると、彼女はボロ屋敷に向かって「じじい」と叫び、新聞を投げた。星野はぼくの肩をよけもせず、すたすたと歩いていった。ぼくは屋敷から「じじい」が出てくるまでそこに佇んでいた。ぼくは彼女と特別な関係にはなれなかった。プールでの話題はもっぱらマーくんと清ちゃんの逃亡だった。ぼくは二キロくらい泳ぎたかったけど、疲れてプールサイドの噂の中で日向ぼっこをしていた。太陽の光を浴びていると、いろいろなことを忘れた。