罪人の墓

ブログは小説の墓場

デブ奇譚 2

(4800字)

ある日こんなささいなことがあった。池永と直美が喋りながら廊下を歩いている時だった。池永は小便がしたかったから男子トイレに入った。池永は用を足す自分の横に直美がいないことに気が付いた。さっきまで一緒に喋り歩いていた直美はどこにいったのだ? と不思議に思ったのも束の間ここが男子トイレであり女の直美は入れないのだと気が付くと池永は苦笑した。
「おれも疲れているのかな? 」
とつぶやこうとして月並なことを月並に思おうとする人間に月並以上のものが手に入るわけがないと思い性器を歓喜させるように腹筋に力を込め膀胱を圧迫した。男子トイレを出ると廊下に直美はいた。池永は閃きのようなものを覚えた。人間にはそれぞれに入れる場所と入れない場所がある、と池永は思った。小学男児は母親の布団にもぐり込めるだろうが高校球児は無理だろう。つまり一人暮らしする自分の部屋で殺されていた加藤朋美を殺した犯人は加藤朋美の部屋に入れる人物だ。一人暮らしの女性は例え相手が顔見知りでも深い関係でないなら、あるいはこれから深い関係になることを望む人でないなら部屋に入れることはないだろう。つまり犯人は彼女と深い関係にあった人物、あるいは彼女が好意を寄せていた人物だ。そう気が付いた時池永はすでに自分が彼女と深い関係にあった「デブ専」たちの事情聴取を済ませていたことを思い出した。池永は自分の無意識の働きに内心驚いていた。しかし驚いたのも束の間だった。池永は男子トイレに女の清掃員が臆することもなく入っていくのを目にした。女でもそれが清掃員なら男子トイレに入れるのだ、ということに池永は気が付いた。

「どうかしました?」
と直美は池永に聞いた。池永の大きな頭の中で、どのような思考の劇が繰り広げられているのか、直美は知りたかった。池永の大きな頭の中では、次のような思考の劇が繰り広げられていた。女でも清掃員なら無条件に男子トイレに入れるわけではない。それは女であり清掃員である彼女にとって女と清掃員のどちらが勝っているかという問題である。清掃員が勝っていれば男子トイレに入れるが女が勝っていれば例え清掃員でも入れないだろう。それを「デブ女」殺害事件に則して考えるとどうなるか? この場合彼女の部屋は男子トイレとなる。男子トイレに入れるのが男子だけではないように、彼女の部屋に入れるのも顔見知りであり深い関係にある人、あるいはこれから深い関係になることを彼女が望む人だけではない。彼女が望まない部外者が強引に押し入ってくるケースもあり得るのだ。そこまで考えて池永は、それも念頭に入れて俺は捜査を進めてきた、と思い、それにしても、と思考を新たな方向に向け、男子トイレである彼女の部屋に女である彼女が住んでいた、というのも妙な話だ、と思った。彼女はなぜ男子トイレなどに住んでいたのか? 男子トイレには黙っていても男が入ってくるからか? それほどまでに彼女は淫乱だったのか? いや違う、と池永は自分の腹に鉛の玉をぶつけるように否定した。こんなのは言葉遊びでしかない! 彼女が住んでいたのは男子トイレではなく比喩としての男子トイレだ。その男子トイレは女子トイレにもオメコにも肛門にも変換可能なのだ。彼女はオメコに入れるものを自分で選択できるがオメコを彼女が完璧に管理できるわけではない。「中出し」されたり細菌に侵入されたりレイプされたりする可能性は常にあるのだ。池永は自分の大きな頭に唾を吐きかけるように、犯人が分からないのに、犯人を絞る、なんてことができるか、とつぶやいた。いや違う、と池永は再び即座に自分を否定した。

池永が迷宮入りしているのは池永がすでに調査済みの箇所を再度たどり直していることからも明らかだった。池永の考えることの大半はすべてすでに考えられた事柄だった。池永は迷宮をさ迷うひとりの男だった。幻覚や幻聴をそれと気付かず見聴きする狂人だった。実際に見た光景、実際に聴いた声や音がベースとしてあったが、それは更新され歪められ彩色されて再現されたものだった。池永はそれに気付かなかった。直美は
「もう何だってやってやれと思った」
と言う。
「もう何をやっても無駄なら何だってやってやれという心境だった」
と言う。直美がそう思うほど池永は成す術もなく狂っていたのだった。池永はもう直美が捜査のどの段階で捜査班に加わったのか分からなかったし分かろうともしなかった。何の疑いも抱くことなく直美が捜査のはじめからいたことになっていた。そしてあるいは池永にとって直美は池永のすべてのようなものだった。直美が池永を産み直美は常に池永とともにあった。二年目捜査官の矢吹は事件発生当初から二年目捜査官であり池永にとって矢吹はいつまでも二年目捜査官であった。池永は「デブ女」に「X∞増殖女」というもうひとつのアダ名をつけていたが矢吹の「二年目捜査官」もアダ名だった。しかし三年目になっても四年目になっても二年目のようだったからそうアダ名されたのかあるいは一年目から二年目のようだったからそうアダ名されたのかあるいはまた別の理由からなのか矢吹がいつそのアダ名をつけられたのか判然としないため「デブ女」殺害事件当初矢吹が何年目の捜査官だったか池永は分からなかったが分かろうともしなかった。何の疑いも抱くことなく池永にとって矢吹はいつも二年目捜査官だった。また池永にとって「デブ女」は殺害以前から「デブ女」であり「X∞増殖女」だった。直美が池永を産んだように殺害が「デブ女」を産み直美が池永のすべてに波及していったように殺害が「デブ女」のすべてに波及していった。

男子トイレが池永の頭蓋骨の内側にこびりついてなかなか離れなかった。歯の裏側ならまだしも頭蓋骨の内側では爪楊枝も届かなかった。池永は思い出す。ある飲み屋の男子トイレで小便をしていると2人組の女が間違えて入ってきたことがあった。ある別の飲み屋の男子トイレで直美とセックスしたこともあったし、また別の飲み屋には便所はひとつしかなく男女共用だった。またある別の飲み屋の便所で顔を洗っていると父親に連れられて5、6才の少女が入ってきたこともあった。池永は考える。「デブ女」は複数犯に間違えて殺されたのか。「デブ女」は一人暮らしだったが半同棲状態の男がおりその男に殺されたのか。あるいは彼女はそもそも一人暮らしではなく男と同棲しておりその男には連れ子がいたのか。連れ子が殺したとすれば連れ子には新しい母親がデブだということに耐えられなかったのか。あるいは血の滲むようなダイエットに取り組んでいたが一向にむくわれない彼女を見かねた連れ子がそれならば大量出血させてやればいいと自分のブラックなグッドアイデアに酔いつつ「デブ女」をナイフで刺したのか。連れ子が「デブ女」を殺害したことを知った父親は連れ子とともに失踪したのか。しかし彼女の部屋には別の男が一緒に暮らしていた形跡はどこにもなく彼女の部屋に出入りする子供の姿を見た者も彼女の部屋から子供の声を聴いた者もいなかった。となると「デブ女」はやはり誰かと間違われて殺されたのだろうか、と池永は思った。謎に満ちたこの事件には少なくとも4つ以上の死体が出ているはずだが、今のところ彼女の死体しか発見されていないのは彼女が間違えて殺されたために、他の殺人事件との関係を通常の思考では見つけられないからではないか。そう考え続ける池永は犯人逮捕のためなら自分を極限まで追いつめる男であった。

「デブ女」殺害事件は5月9日迷宮の日に起きたが、実は29年前の同じ日に「デブ女」は誕生したのであった。迷宮の日に生まれ迷宮の日に迷宮入りした「デブ女」。しかし29年前のその日に生まれ29年後のその日に迷宮入りしたのは彼女だけではなかった。彼女の双子の姉がそれだった。ふたりは生き別れ互いに自分が双子の片割れであることを知らなかった。互いに生き別れた姉、生き別れた妹を補うようにふたりはともによく食べよく太った。ふたりは自分の異様なほどの食欲の理由を知らなかったが実はそういう理由だったのだ。ふたりは一卵性双生児でありともによく食べたこともありよく太りよく似ていた。ふたりがなぜ生き別れることになったのか、ふたりの父親は行方不明であり母親はすでに他界しているためハッキリとしたことは分からない。しかし母親が他界したのは胎内にいた頃からデブだったふたりを産んだ直後だった。医者はそうなることを懸念しどちらか片方を堕ろすことを母親にすすめたが母親は拒否した。その結果の死だった。よく食べよく太った赤ん坊を男手ひとつで育てるのは難しかった。ふたりの父親は父親としての自覚に乏しくふたりを捨てた。捨てられたふたりはそれぞれ別の家庭に引きとられた。まだ1才にも満たなかったふたりはそんなことは知る由もなくすくすくとよく太りよく似よく育った。

やがて成人したふたりは自身の来歴を知らされたかも知れない。しかしふたりが再び出会うのは29才の誕生日、とある「デブ専」を通してだった。「デブ女」も傍目には相当危なっかしい日々を送っていたが、彼女の姉も同じだった。彼女の姉・後藤沙織はデリバリーヘルスで働いていた。「デブ専」の相手をできるのはそれほど多くはなかった。なぜならデブでなければならないからである。沙織の在籍していたデリバリーヘルス「レインボー」代表取締役・村井裕二は慢性的なデブ不足に頭を悩ませていた。広告チラシに
「デブ大募集!」
と印刷して募ったがデブは来なかった。沙織が出現したのは半分あきらめかけた頃だった。村井裕二は歓喜し自身は「デブ専」ではないにもかかわらず嬉しさのあまり沙織に抱きついた。そして「自動車・携帯電話持ち込み」で雇った送迎係に自動車を軽からワンボックスに買いかえるよう要請した。金がないと渋る送迎係に村井は
「彼女を送迎できないのであれば送迎係失格だ、お前は送迎係として彼女を送迎できないことにプライドを傷付けられないのか、そんな生半可な気持ちで送迎を生業としているのか」
と怒鳴り散らしワンボックスに買いかえさせた。その意味でも沙織はデリバリーヘルス「レインボー」に鳴り物入りしたと言っても過言ではなかった。「デブ女」沙織は「デブ専」相手に期待通りのフル稼働をしてみせた。いや、期待以上の働きをした。沙織は単なるデブではなかったのだ。デブの中のデブだった。それはとてつもなく太っていたということではなくとてつもなく輝いていたということだ。

彼女は「デブ専」を虜にした。虜となった「デブ専」は次から迷わず彼女を指名し
「彼女でなければならない」
と言い
「とにかく早く彼女に会いたい」
と言い
「今すぐ連れてきてほしい」
と言い
「気が狂わないうちにお願いします」
と言った。沙織はフル稼働していたがそれでも追いつかなかった。彼女は体力の限界を感じたわけではなく体力のとてつもない過剰を感じ外国に飛び立った。一週間の予定だったが彼女はなかなか帰ってこなかった。「デブ専」は我慢できなかった。「レインボー」の電話は一週間鳴りっぱなしだった。
「バカンスに出ている」
と言っても信じる者はいなかった。一週間の辛抱だと村井は「デブ専」に言うように電話係の女に言ったが一週間が過ぎても沙織は帰ってこなかった。沙織は旅行先で恋に落ちていたのだった。デリバリーヘルス「レインボー」は「デブ専」の電話ラッシュを受け営業を停止せざるを得なかった。「レインボー」は「サーカス」に店名を変え電話番号を変えた。その他は一切変えなかったが「デブ専」たちは成す術もなかった。デブは他にもいると彼らは自分を納得させざるを得なかった。