52 記号の囚人

何が「お客様」だよ。馬鹿にしてんのか?
そう怒鳴りつけてやりたかったが、そんなことしたら頭がイカれてる認定されるだけだ。「一目で、オレよりお前のほうがずっと立派でまともな人間だってことはオレには分かったし、お前にだってオレがお前より下の人間だって分かったはずだ。そういうのは分かるんだ。それでも店の中ではオレもお前も、客と店員という記号になるから、お前は「お客様」なんて言わなきゃならないし、オレはオレで嫌でも「お客様」を甘受しなきゃならないんだ」
コジュナの有無を尋ねたオレに、「お客様。こちらにごさいます」と馬鹿丁寧な返事をして、オレの前を歩き出した店員の後頭部を穴があくほど見つめながら、オレは心の中でひとしきり悪態をついた。
黒い液体に浸されたコジュナの水槽の前で、オレは足を止めた。さっきまで後頭部だった店員は、顔面をこちらに向けている。オレに後頭部を向けている間は仏頂面あるいは無表情だったに違いないが、今はにこやかだ。
「なかなか立派なコジュナですね」などとは言わない。オレはコジュナ評論家ではないし、コジュナの善し悪しなど分からない。下手なことを言えば知ったかぶり野郎認定されかねない。沈黙は金なり、だ。オレは真剣な眼差しで黒い液体に浸されたコジュナを見つめたが、見つめたって何が分かるわけでもない。オレは視界の外にいる店員の思考をトレースしようとしていた。
店員の思考はだだ漏れで、オレの頭の中に店員の声が流れ出した。「何見てんだこの馬鹿。お前に何が分かるってんだよ。こっちだってヒマじゃねえんだよ。さっさと買えよ馬鹿」
オレは悲しくなかった。もう慣れた。不意に視線を感じた。コジュナの水槽の向こうに通路があり、通路に面してこちらを向いた棚にゲージがあり、そのゲージの中にチワワがいて、そのチワワが大きな潤んだ瞳で一心にオレを見つめていたのだ。オレは驚き、そして自覚するより先に深く感動していた。オレはこんなふうに見つめられたことなど、これまでの人生で一度もなかったのだ。オレの視線に気づいて、びっくりしたようにこちらに視線を向けられることはあっても。ゲージについた札にはそのチワワがオスであることを示すマークがついていた。オスでもいい。メスじゃなくても。交配したいわけじゃないんだから。
安い買い物ではない。しかしオレは迷うことなく店員に向き直り「彼を下さい」と自信に満ち溢れた、まるで命令するような態度で言った。
店員は「お買い上げありがとうございます」と頭を下げ、コジュナの水槽に手を伸ばそうとした。
オレは店員を制し、腕をすっと伸ばすと、コジュナの向こう、ゲージの中のチワワを指差した。「彼です。彼を下さい」

店を出てすぐに、オレはチワワを地面に下ろした。そのままチワワの頭を撫でた。チワワは飛び上がり、オレの首を噛んだ。オレは尻餅をつき、リードを手放した。一目散に逃げていくチワワの可愛いお尻を、オレは見つめるしかなかった。
チワワは店の中では、「商品」という記号になっていたに過ぎなかったのだった。

チワワよ。オレは金を払い、お前の「飼い主」になった。そしてお前はオレの「ペット」になった。違うのか?
「馬鹿かお前は」オレの頭の中に、チワワの声が流れ出した。「オレが商品なんて記号に甘んじてたのは、あのくそ狭いゲージから脱出するためさ。オレはお前みたいなくそ飼い主のペットになる気なんてさらさらなかった。オレはオレ好みの飼い主を見つけて、幸せなペットライフを送るんだ。あばよ!」