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19 原風景・くつ、あるない

S君は四人きょうだいの次男。兄と弟と妹がいます。今はみんな独立して家をでていますが、かつてはひとつ屋根の下で暮らしていました。
S君が小学校二年生の頃の話。学校から帰って家にいると、台所の母がS君に尋ねました。「K君(S君の兄)はもう帰ってきてるの?」S君は兄が帰ってきているのかまだなのか分かりませんでした。そこで家の中を兄の名前を呼びながら、あるいはこっそり忍び足で(というのもどこかに身を潜めているかも知れないからです)捜しました。それでも見つからなかったため、母に「まだ帰ってきてない」と報告しようとしたのですが、そこでS君はひらめき、玄関に行きました。兄の靴があれば帰ってきているということ、なければまだ外にいるということだと考えたからです。
玄関には大量の靴がありました。一人一足ならわけないのですが、現実はそう甘くはありません。兄の靴はいくつか見つかりましたが、いつも履いている靴は見つかりませんでした。そこでS君は兄はまだ帰ってきてないと母に報告しようとしたのですが、しかし報告をためらわせるものがありました。それは、兄のいつも履いている靴は確かにそこにあるのに、自分が見つけられていないだけなのではないか、という疑念です。S君はこの疑念を、ぬぐい去ることができなかったのです。
S君はこの体験から「ある」と「ない」の非対称性、すなわち「ある」の確実性と、「ない」の不確実性を学びました。