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26 血の噴水

半径五メートル以内なら、その独特の口臭によって、目を瞑っていても存在を察知できる。リビングのソファに身を委ねた崇は、嗅覚が捕捉した情報を分析し、千草が背後から近付いてきていることを知り、餌をちらつかせて視聴者を繋ぎとめようとするテレビ番組に逆撫でされていた神経をさらに逆撫でされた。
千草の姿は視界の外にあり、テレビ画面にも映り込んでいないため見えないが、満面の笑みを浮かべたデブ猫といった感じなのは、想像に難くなかった。それは本人のセルフイメージとは大きく隔たっているに違いなく、崇はうんざりした気分になり、ソファで身動ぎした。
忍び足で足音を消し徐々に崇との距離を詰めていたデブ猫は、虚を突かれたように足を止め、奇妙なポーズのまま静止する。崇が動いたら止まれ、と訓練された賢い犬ででもあるかのように。そんな健気で従順で真剣ですらある自分に、愛おしさと可笑しさがこみ上げてくる。崇は、千草の外面の動きはもちろんのこと、内面の動きすら手に取るようにわかる自分に、心底辟易するのだった。
千草はいつまでも若々しいお茶目な奥様で、そんな千草の性格が、奥夫妻の夫婦円満の秘訣ということになっていた。
崇は、この後の展開も完璧に読めた。
独特の口臭が、それは否応なく崇に傷んで黒ずんだ水っぽいキャベツの芯を連想させるのだが、我慢ならないくらいの域にまで達したところで、両眼を両手で、それは鹿の角に似た質感を有しているのだが、ふんわりと覆われ、可愛らしさを精一杯演出した声音で「だーれだ?」と囁かれるのだ。経年劣化した喉から発せられる低音は、おぞましさ以外の何物でもなく、背筋に悪寒が走るだろう。悪寒はひどく足裏の冷えた小さな子供だ。眼に指が入ったとイチャモンをつけてぶん殴ってやろうかと物騒なことを考えるが、崇は自分の我慢こそが夫婦円満の秘訣だと思い込んでいるため、考えるだけで満足する。
千草はすでに真後ろに立っており、崇はリアクションの準備を整える。千草の手に物騒な物が握られているとは予測すらしていなかった崇は、惨劇の瞬間、陽気に「WAO!」と叫んでいた。フライング気味で、しかも読みが完全に外れたために、間違ったリアクションになってしまったことを、崇は瞬時に悟った。首の皮膚を外側に押し出していた喉仏の辺りを源とする血の噴水が、崇の視界を真っ赤に彩った。