40 胸山事件と私

社会を震撼させた衝撃的な事件であれ、時の鑿の暴威に無傷でいられるものではない。建造物の風化が避け得ないものであるように、事件の記憶も人々の脳細胞のなかで鈍磨し、生々しさを失う。
胸山事件から早二十年。二十年という歳月は決して短いものではない。当時十七歳だった私は、三十七歳になった。時は一瞬の風のようであり、また砂漠の壊れた時計のようでもある。
本稿では「胸山事件と私」と題して、当時の思い出を振り返りたい。
私を胸山事件に深く結びつけたのは、村上美奈子(敬称略、以下同)である。彼女は私のピアノの先生であり、十五歳から先生に会えなくなるまでの二年間、私は週一回、ポップミュージックの弾き語りを先生から教わった。
レッスンはカラフルでふわふわのぬいぐるみの館と化した先生の自宅で行われた。先生の自宅は、国道十六号線沿いの、徳川三丁目の、細長いヘアアイロンのような形の、十階建てのマンション(一フロア一戸形式)の七階にあった。
私は、先生の愛情をたっぷり含んだ、非常に厳しい指導のおかげもあり、二年生の文化祭では弾き語りで「ピョコピョコ ウルトラ」を披露し、衝撃的なステージデビューを飾ることとなった。
今でも「ピョコピョコ ウルトラ」はカラオケでの私の十八番であり、私が弾き語りできる唯一の曲目である。
私を先生に結びつけたのは、私の小学校からの同級生で親友、先生の姪に当たる古田絵里だった。絵里ちゃんとは今でも交流がある。先日も台湾料理を食べに行ったばかりだ。美味しかったし、楽しかった。また行こうね。
先生の自宅ではたびたび高城駿介の香りを嗅いだ。今でもあの香り(高城駿介が愛用した香水の香り)を嗅ぐと、ぬいぐるみで溢れかえった先生の自宅に連れ戻される。
高城駿介に会ったことはない。先生の恋人であり、催眠術アプリの開発者であった高城駿介。一度は会ってみたかった人物だ。
たまに記事などでマッドサイエンティストのひとりとして、軽いノリで高城駿介の名を出す人たちがいるが、その人たちにとって高城駿介は人ではなく情報なのだろう。私にとっては会ったことはなくとも人であり、人であるということは情報に還元できないということである。
私はずいぶん前に、先生と高城駿介の年齢(二十七歳)を越えた。十七歳当時はずいぶん大人に見えたものだけど、三十七歳の私から見ると、ずいぶん若いふたりだったのだなとしんみりする。
先生と私は仲良しだった。濃淡の差こそあれ、互いにハロヲタであり、レッスン後に先生はいつも紅茶を淹れてくれた。高城駿介の話は出なかったものの、ふたりの交際が順調なのは、先生の様子から疑いようがなかった。
高城駿介はマッドサイエンティストだったのだろうか?確かに高城駿介が開発に尽力した催眠術アプリは危険を孕んでいた。それは誰にでも想像できる危険であり、高城駿介だけが危険を予知できなかったとは考えにくい。
後に巷で単に「胸山」と呼ばれるようになる催眠術アプリは、画面に現れる「胸山」の文字が微妙な按配で揺れ動くことで、見る者を催眠状態に誘い込む画期的かつ驚異的なアプリであった。
開発段階にあった「胸山」の最初の犠牲者となったのが、唯一の被験者として、開発に携わっていた先生である。
先生の死を私に伝えるという重い仕事をしてくれたのは、絵里ちゃんだった。絵里ちゃんにはどれだけ感謝してもしきれない。ありがとう、絵里ちゃん。
先生がなぜ高城駿介がいない時に「胸山」を使用したのかは永遠の謎だが、後の研究で「胸山」の使用で催眠状態に陥った者は「広い場所を求めて彷徨する」ことが立証されている。自宅で「胸山」を使用した先生は「広い場所を求めて彷徨」し、ベランダの手摺りを乗り越えたと考えられる。
高城駿介は恋人の葬儀に参列しなかった。この時点で先生の死が自殺でないことを知っていたのは高城駿介ただひとりだった。高城駿介の心の内は計り知れない。どのような感情が渦巻いていたのだろうか?
人が情熱を傾けて尽力した事業を手放すことは容易ではない。高城駿介も例外ではなく「胸山」を手放すことができなかった。
先生の死の時点で「胸山」を消去していたなら、後の事件は何ひとつ起こらなかったはずであり、高城駿介自身も、自身を消去する結果にはならなかっただろう。「胸山」がネットに流出した時点で、その後の狂騒を見守ることなく、高城駿介は自ら命を絶った。
流出した「胸山」は多くの犠牲者を出した。先生が最初の犠牲者であることも分かった。興味本位で「胸山」を試した者が先生と同じ末路を辿り、また「胸山」を悪用した強盗事件、強姦事件その他諸々の事件が多発した。
現在「胸山」は所持しているだけで犯罪だが、一度ネットに流出した情報を完全に駆逐することは不可能だと言われている。
胸山事件から早二十年。新たな犠牲者を出さないためにも、事件を風化させてはならない。