42 組織のマリオネット

バスが停まった。ナルヌチフだった。冷房が効きすぎた車内で、悪路を五時間も揺られていたため、体の節々が痛んだ。バスは騒音と砂埃を巻き散らし走り去った。
オレはバックパックをだらしなく肩にかけ、粉塵がおさまるのを、不機嫌な顔をして待った。アイスが溶けるように、じんわりと汗が滲み出した。荒れた大地に放擲されたような、不快なバスの旅から解放されたような、ちぐはぐな気分だった。
停留所から十メートルほど先の木陰を凝視した。五、六人の現地の男たちがたむろしている。そのうちの一人と、目が合った。男はオレを認めると、しぶしぶといった感じで(こいつも不機嫌な顔をしている)談笑を切り上げ、極端なガニ股で歩いて来た。
男の名はバグ。オレをナルヌチフくんだりまで呼び出した張本人だ。

この国の人間たちは加減というものを知らない。冷房が快適な温度設定のもとに運用されることはなく、冷房の本分は密閉空間をとことん冷やすことにあると心得ているかのように、カフェの店内はバスの車内同様寒かった。汗は急速に冷やされた。
バグも例に洩れず加減というものを知らなかった。出会った頃はスキージャンプのV字くらいだったガニ股が、今では、バレエのセカンドポジションのプリエを思わせる一文字のガニ股だった。
カフェは市街地のビルの一階にあった。このビルがもともと何階建ての建物だったかは分からない。三階より上が、かつての紛争で跡形もなく消え去っていたからだ。二階にダンス教室があったなら、即座に倒壊してしまいそうなボロさだ。
昼時で混雑したカフェでオレはサンドイッチとコーラの昼食をとった。組織のマリオネットも何食わぬ顔で混雑に紛れているに違いなかったが、今のところオレには(もちろんバグにも)なす術はなかった。

複数の顔を持つオレの今回のナルヌチフ滞在の表向きの目的は、バグのヘアスタイル・アドバイザーとしてのものだった。
カフェでオレはバグと向かい合い、昼食をとりらながら、バグの頭髪の特定部分(もみあげ)に関して、この国の公用語で、ちょっとしたアドバイスを送った。これで表向きの目的は果たされたわけだった。
椅子に座っていても、バグはガニ股だった。オレとバグの間にはテーブルがあったが、バグの脚の形が、座面の下でトランプのダイアの形をキープしている様子が、オレの目にはありありと見えていた。オレに透視能力があるわけではない。テーブルが透明のガラス製だったのだ。
目的を果たしたことで、肩の荷が下り、ようやくリラックスできた、という雰囲気をオレは醸し出した。組織のマリオネットが、こんな猿芝居に惑わされることはないはずだと、外面を取り繕うことを怠れば、命取りになりかねない。マリオネットに関して、オレたちに分かっていることはそれほど多くはないが、マリオネットの能力を人間の基準で評価しようとすると、誤ることになるのは確実だ。マリオネットの高い能力は疑いようがなく、オレたちの脅威となってはいるものの、そうかと思えば、一方で「ヘアスタイル・アドバイザー」などというふざけた肩書きを真に受ける(人間の基準からすれば)間抜けな側面もあるのだ。マリオネットは嘘を見抜けない。それは、冗談が通じない、ということでもある。

オレはいつもバックパックに録音機材を入れ持ち歩いている。嵩張るし重いが、オレの趣味は民族音楽収集家なのだ。言うまでもなく、民族音楽収集家というのも、オレの表向きの顔、真の目的をカムフラージュするための、仮面である。


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