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日常生活のアポリア

本を読んでいて、「女哲学者テレーズ」だったか、文中に「アポリア(難問)」という表記を見つけ、これは「アポリア」を「難問」という意味で理解して差し支えないということだろうと考え、私はそのように読み進めたわけだが、しかし両者の関係が=ではなく()であることを見過ごすことはせず、したがって留保付きの知識として、それは私の記憶に残ったのであった。まるでマグカップの内側にこびり付いたコーヒー滓のように。

「どこからが浮気か?」というアポリア(難問)がある。これにはまだ明確な答えが出ていない。だから何度でも議論される。それでは「鼻毛が出ている人を見かけたら教えてあげるべきか?」というアポリア(難問)についてはどうだろう。これにもまだ明確な答えは出ていないように思う。私は後者について、考えてみたい。

まずこのような設問が成立する条件として、鼻毛が出ている相手は赤の他人ではいけないし、また腹を割って話せる間柄の人であってもいけない。なぜなら前者の場合は、教えてあげる必要はないし、後者の場合は、教えようが教えまいがどちらでもいいのであり、そのような相手の鼻毛の飛び出しに対して、人はアポリア(難問)に直面することはないからである。人がアポリア(難問)に直面するのは、赤の他人ではないし、かといって腹を割って話せる間柄というわけでもない人の鼻毛の飛び出しに直面した時である。

アポリア(難問)を前に人は苦悩する。教えるにしろ見て見ぬふりをするにしろ、どちらにもそれなりのリスクがあるからである。両者を天秤にかけてみても明確な答えは出ない。シーソーのように右が上がったと思えば左が上がり、左が上がったと思えば右が上がる。しかもそれはどんぐりの背比べであり、ある意味勝ちのないギャンブルであり、どちらが互いの関係にとって傷が浅いかを測っているようなものだ。

私はここに、新たな視点を導入したい。それは鼻毛の自由という視点である。鼻毛が出ている出ていないはそもそも当人の自由なのではないか。そう考えると、鼻毛が出ている人に対して鼻毛が出ていると教えてあげること、それは一見親切に見えるが、実は鼻毛を抜くなり切るなりしろと命令していることと同義であり、それはすなわちその人の自由に対する重大な侵害であるとは言えないか。

この新たな視点の導入によって「鼻毛が出ている人を見かけたら教えてあげるべきか?」というアポリア(難問)に「教えることは、その人の自由に対する重大な侵害になるので、教えるべきではない」という、それなりの答えを与えることができるのではないか。しかしこれがベストだとは思えない。大多数の人にとって鼻毛が出ていることは不本意なことであり、あえて鼻毛を出している人はほとんどいないはずだからである。

とは言え、その人が鼻毛を出す自由を行使しているのか、それともその人のあずかり知らぬところで不本意ながら鼻毛が飛び出しているのか、こちらで判断することはできない。そう考えると、ベストな答えは「教えてあげるのではなく、当人に判断させるように仕向ける」ということになるのではないだろうか。言い方は色々とあるだろうが、私としては鏡を見て自分の顔をチェックするように促すのが良い気がする。

53 サナトリウムと精神病院

丘の上に双子の建造物があります。麓から見上げると、その上方の一部分がわずかに見えるだけです。丘の全体に生い茂るマツや、ヤブツバキ、モチノキなどの植物群が、視界の大部分を覆ってしまうからです。丘を登り下りする道はいくつもありますが、車が通れる道は、一本だけです。黄色いナンバーの小さな白い軽自動車や、黒塗りのセダン、タクシー、ワンボックスカーが登っていき、しばらくすると下りてきます。誰かを乗せていき、誰かを下ろしてきたのでしょうか。あるいはそれは業者で、なんらかの物品を納入してきたのでしょうか。車が走り去り、エンジンの音やタイヤが砂を踏む音がきこえなくなると、あたりは先程よりもいっそう静かになったような気がしてきます。上方の一部分がわずかに見えるだけとはいえ、麓から見上げるだけでも、双子の建造物の違いは見てとれます。西棟は白く、東棟は黒ずんでいるのです。白い西棟がサナトリウム、黒ずんだ東棟が精神病院です。サナトリウムには、女性しか入所できません。そして、精神病院に収容されているのは、男性のみです。そういう仕組み、決まりなのです。この丘の上の双子の建造物は、もともとは小学校でした。大きな津波がきたとき、この小学校に避難した人たちは助かりました。津波にのまれた町は廃れ、小学校は廃校となりました。そのあと、心霊スポットとなり、それからずっと何年もたって、サナトリウムと精神病院になったのです。

 

この複合施設に、地元の人は一人もいません。みんな、遠方からやってきた人たちです。かってしったる場所から遠く離れることに意味、安心があるのでしょう。談話室や共同寝室の窓から見える光景、自分の記憶と結びついたものがない景色、廃れた町や、その向こうに広がる海原。見つめていると、空っぽになります。この空っぽの状態が心地よく、なにより大切だと思えるのです。もちろんそれは、サナトリウムの女性たちの話で、遠方からやってきたという共通点があるにしても、精神病院の男性たちは、そうではありません。壁が黒ずんでいることからもわかるように、精神病院の方は管理が行き届いておらず、鉄格子が嵌められた窓は白っぽい埃で汚れて中からはおそらくろくに外は見えないでしょうし、たとえなにかが見えたとしても、それは海ではありえません。サナトリウムに遮られて、精神病院から海は見えないのです。かつての小学校時代は、この三階建ての双子の建造物の二階部分に、両棟を繋ぐ渡り廊下がありました。いまは取り壊されて、両棟を行き来することはできなくなっています。両棟の往来を阻むものは、そればかりではありません。精神病院は、高い鉄条網と有刺鉄線に周囲をぐるりと取り囲まれてもいるのです。サナトリウムの談話室や共同寝室からは海が見えますが、ひとたび廊下に出ると目に入るのは、黒ずんで古びた怖ろしげなコンクリート、錆びた鉄格子、白く汚れた窓、風雨にさらされ色あせた鉄条網、トゲトゲの有刺鉄線です。女性たちはどことなく厳粛に、それらを見つめます。笑うことはありません。目が汚れると文句を言うこともありません。彼女たちはなにを思って見つめているのでしょうか。苦しみにあえぐ男性たちが、無事に恢復することを願い、祈っているのでしょうか。どうやら、そうではなさそうです。

 

サナトリウムの女性たちに、仕事というものがあるとすれば、それは生活圏を清潔に保つために、毎日午前中に実施される掃除、洗濯くらいです。白いタイル張りの共同寝室、白いシーツ、白い陶器の便器、浴槽、鏡、長いリノリウムの廊下、ステンレスのシンク、どこもかしこもきれいすぎるくらいきれいです。それこそピカピカのツルツルなのですが、それでも毎日きれいにしています。一日二日休むことなど、だれも考えもしません。精神病院からは頻繁に、昼夜を問わず、男性患者たちの苦悶の叫び声が洩れきこえてきます。サナトリウムと精神病院は隣接していますから、それゆえ洩れきこえてくるというわけでは、実はありません。津波の後、町の人口は急激に減りましたが、もちろんまったくの無人になったわけではないため、患者たちの叫びを、外部に垂れ流すわけにはいきません。そのため、病院内は防音加工が施されているのですが、それではなぜ、サナトリウムにいながら、患者の叫び声がきこえてくるのでしょうか。それはサナトリウムの廊下側、東の壁にいくつものスピーカーが、巧妙に埋め込まれているためです。病院内に設置されたマイクが拾った音声が、これらのスピーカーから流れるようになっているのです。就寝時は音量が下げられますし、雨音がうるさい日は音量が上げられたりします。女性たちは黙々と、敬虔に、雑巾を絞ったり、シーツをまとめて洗濯乾燥機に押し込んだり、洗剤を吹きかけたりしながらも、耳はスピーカーから洩れきこえてくる音を拾っているのです。音から、なにが行われているのか知ろうとしています。果たして自分が提案した治療法は採用されたのだろうかと。

 

スピーカーが埋め込まれているのは、談話室と共同寝室のある二階と三階だけです。一階は業者の人たちの出入りがありますし、一階にある調理室ではコックさんをはじめとした調理スタッフが立ち働いていますし、同じく一階にある事務所には事務員がいます。謂わば一階はまだ町の一部、すなわち下界なのです。その人たちにきかれてはいけないと、女性たちは認識しています。しかしそれは、なにか罪の意識というようなものと結びついているわけではありません。女性たちは、悪いことをしているとはまったく思っていないのです。ただ自分たちが悪いことだとは思っていなくても、自分たち以外の人たちがどう思うかは別です。面倒なことになったり、注目されたりしたくないのです。なにものにも蹂躙されたくないのです。そのための処置なのです。女性たちには、二つの方向があります。精神病院の方向と、海の方向です。海を見ていると、心が洗われます。癒されます。きれいになります。するとアイデアが浮かびます。それを紙に書きとめると、スミレ先生に渡します。スミレ先生は、ほっそりとした背の高い男性で、色白で透き通るような肌をしています。スミレ先生はある意味、目が見えません。スミレ先生に見えるのは、黄色い帽子をかぶった女性だけです。スミレ先生は土日祝日はお休みしていますが、普段は廊下を行ったり来たりしていて、黄色い帽子をかぶった女性にだけ声をかけます。黄色い帽子は子供の印です。黄色い帽子をかぶっていると、スミレ先生に少女として扱ってもらえます。スミレ先生はとても優しくて、みんなの人気者です。紙を渡すと、精神病院に届けてくれます。スミレ先生はサナトリウムの二階と三階に出入りする唯一の男性で、東棟への架け橋ともなっているのです。スミレ先生は男性ですが、おちんちんがないといわれています。本当かどうかはわかりません。ですが女性たちは、そう信じているから、スミレ先生を信頼しているのではないでしょうか。

 

もともとスミレ先生は、精神病院の患者だったといいます。精神病院はサナトリウムとは対称的に、不潔極まりない劣悪な環境です。掃除などろくにされず、洗濯や入浴などもおろそかにされています。トイレはよく詰まり、糞尿が溢れ返ることは日常茶飯事です。すぐに修理されることはまずなく、しばらくそのまま放置され、ひどい悪臭を放つにまかされます。手洗い、うがいなどが奨励されることはなく、黒ずんだ汚い使い古しの割り箸で粗末な食事を口に運び、お腹を壊してひどい下痢糞を飛び散らせます。トイレットペーパーはなく、新聞紙やチラシでけつを拭きます。こんな環境ですから、せっかく女性たちが知恵を絞って考案した治療法も、まったく効果を発揮してくれません。背中をムチで打たれたり、水風呂で半身浴をさせられたり、そういった治療はむしろ、患者たちを苦しめるばかりのようなのです。女性たちの期待はいつも裏切られます。薄暗いじめじめしたナメクジの背中のような廊下の隅に、毎朝、パンのかけらや肉片が施工者によって放置されます。それらはネズミたちの餌です。精神病院内ではネズミが駆除されるどころか、積極的に育てられているのです。スミレ先生が患者だったある日のこと、スミレ先生は全裸にされ、ベットに両手両足を縛りつけられました。それはある女性が考案した治療法を実施するためでした。裸でベットに縛りつけられたまま、ロウソクのロウを地肌に垂らされることで、患者は正気に戻るとその女性は考えたのです。治療にあたる黒いマスクをかぶった施工者は、レシピ通りの施術を実施しました。そこまではよかったのですが、施術後、縛めを解くのを忘れてしまいました。スミレ先生にとっては怖ろしい一夜でした。スミレ先生はネズミにおちんちんを齧られてしまったのです。しかし怪我の功名でしょうか。スミレ先生は齧られて正気に戻り、精神病院からの初の恢復者となったのです。そして、サナトリウムで働くこととなりました。

 

患者たちは、己の病いに苦しみ、不潔極まりない劣悪な生活環境に苦しみ、慢性的な下痢に苦しみ、過酷なだけで不毛な治療に苦しんでいます。しかしそれだけではまだ足りないとでもいうのでしょうか。患者たちの苦しみにさらなる拍車をかけるものがあります。それは幽霊です。精神病院内には、頻繁に幽霊が出るのです。このもと小学校が、過去の一時期、心霊スポットとして栄えたのはそれゆえであり、そしてその後訪れる者が途絶えたのも、それゆえでした。本当に出るため、シャレにならないと、だれもが敬遠するようになったのです。ここがサナトリウムと精神病院として生まれ変わるとき、サナトリウムの方は除霊しましまが、精神病院の方はあえて除霊しませんでした。そのためいまでも出ます。施工者が休息している夜中の叫び声は、患者たちが幽霊に脅かされているなによりの証拠です。とてつもない恐怖に、患者たちは眠ることもままならないのです。

 

サナトリウムは入居者にとっての終の住処ではありません。やはりここは休息所なのです。羽を休める場所、傷を癒す場所です。ゆっくり休んだら、女性たちはここを出ていきます。そのころには女性たちは、いろいろなことがわかっています。なんとなくですが、わかっているのです。スミレ先生にはたぶんちゃんとおちんちんがついているであろうこと。精神病院にはたぶん患者など一人もいないであろうこと。よって施工者もおらず、いるのはエンジニアで、サナトリウムの一階のどこかの部屋に陣取り、どこからか拾ってきた音声を流しているのであろうこと。様々な情報に接するが、そのどの情報ももとをたどればマダムに至るであろうことなどです。マダムはサナトリウムの生き字引のような存在で、多くを語らず、いつもにこやかにしています。談話室の安楽椅子が、彼女の指定席です。いつもそこから海を眺めています。最後の一文は、あるいは必要ないかもしれません。ですが、あえて書かせてください。サナトリウムを出ていくとき、女性たちの心は決まって青い空のように澄み渡っています。

 

52 記号の囚人

何が「お客様」だよ。馬鹿にしてんのか?
そう怒鳴りつけてやりたかったが、そんなことしたら頭がイカれてる認定されるだけだ。「一目で、オレよりお前のほうがずっと立派でまともな人間だってことはオレには分かったし、お前にだってオレがお前より下の人間だって分かったはずだ。そういうのは分かるんだ。それでも店の中ではオレもお前も、客と店員という記号になるから、お前は「お客様」なんて言わなきゃならないし、オレはオレで嫌でも「お客様」を甘受しなきゃならないんだ」
コジュナの有無を尋ねたオレに、「お客様。こちらにごさいます」と馬鹿丁寧な返事をして、オレの前を歩き出した店員の後頭部を穴があくほど見つめながら、オレは心の中でひとしきり悪態をついた。
黒い液体に浸されたコジュナの水槽の前で、オレは足を止めた。さっきまで後頭部だった店員は、顔面をこちらに向けている。オレに後頭部を向けている間は仏頂面あるいは無表情だったに違いないが、今はにこやかだ。
「なかなか立派なコジュナですね」などとは言わない。オレはコジュナ評論家ではないし、コジュナの善し悪しなど分からない。下手なことを言えば知ったかぶり野郎認定されかねない。沈黙は金なり、だ。オレは真剣な眼差しで黒い液体に浸されたコジュナを見つめたが、見つめたって何が分かるわけでもない。オレは視界の外にいる店員の思考をトレースしようとしていた。
店員の思考はだだ漏れで、オレの頭の中に店員の声が流れ出した。「何見てんだこの馬鹿。お前に何が分かるってんだよ。こっちだってヒマじゃねえんだよ。さっさと買えよ馬鹿」
オレは悲しくなかった。もう慣れた。不意に視線を感じた。コジュナの水槽の向こうに通路があり、通路に面してこちらを向いた棚にゲージがあり、そのゲージの中にチワワがいて、そのチワワが大きな潤んだ瞳で一心にオレを見つめていたのだ。オレは驚き、そして自覚するより先に深く感動していた。オレはこんなふうに見つめられたことなど、これまでの人生で一度もなかったのだ。オレの視線に気づいて、びっくりしたようにこちらに視線を向けられることはあっても。ゲージについた札にはそのチワワがオスであることを示すマークがついていた。オスでもいい。メスじゃなくても。交配したいわけじゃないんだから。
安い買い物ではない。しかしオレは迷うことなく店員に向き直り「彼を下さい」と自信に満ち溢れた、まるで命令するような態度で言った。
店員は「お買い上げありがとうございます」と頭を下げ、コジュナの水槽に手を伸ばそうとした。
オレは店員を制し、腕をすっと伸ばすと、コジュナの向こう、ゲージの中のチワワを指差した。「彼です。彼を下さい」

店を出てすぐに、オレはチワワを地面に下ろした。そのままチワワの頭を撫でた。チワワは飛び上がり、オレの首を噛んだ。オレは尻餅をつき、リードを手放した。一目散に逃げていくチワワの可愛いお尻を、オレは見つめるしかなかった。
チワワは店の中では、「商品」という記号になっていたに過ぎなかったのだった。

チワワよ。オレは金を払い、お前の「飼い主」になった。そしてお前はオレの「ペット」になった。違うのか?
「馬鹿かお前は」オレの頭の中に、チワワの声が流れ出した。「オレが商品なんて記号に甘んじてたのは、あのくそ狭いゲージから脱出するためさ。オレはお前みたいなくそ飼い主のペットになる気なんてさらさらなかった。オレはオレ好みの飼い主を見つけて、幸せなペットライフを送るんだ。あばよ!」

0 穴

カーくんの父ちゃん母ちゃんが交通事故で死んだってのは聞いていたけど、うまく実感がもてなかった。小学中学とカーくんとは親友みたいな付き合いだったけど、高校で別々になってからは僕もカーくんも新しい環境でそれぞれやっているうちに会わなくなっていたから。
それが夏休みに僕がはじめてできた彼女と土岐川の花火大会で焼きトウモロコシを食べながら提灯とか電飾とかの中を歩いているとカーくんも彼女みたいなのを連れて歩いててばったり出くわした。
それが夏の頭で僕はいきなり彼女にふられて傷心って感じでカーくんの家に遊びに行くと、やっぱりショックを受けた。ほんと大衆食堂って感じの国道沿いの店がカーくんの家なんだど、もうボロボロだった。黄色っぽい弱った雑草が駐車場の割れ目から伸び出ているし、背後の何となく元気のない山が迫ってきていて家はその一部分になろうとしているみたいだった。
国道沿いだけあって車はびゅんびゅん通って、排気ガスも夏の強い陽射しに押されて地面を這っていた。日中の焼きただれそうなアスファルトを冷やすものは何もなく、店の看板は取り払われ、あるものは色あせ埃をかぶり、電球は切れたまま放置されていた。

カーくんと一緒にいた女が結局誰なのか分からなかったが、僕は夏休みだったしカーくんの家に住みついて、だらだらしていた。
ボンゴはカーくんの友達って話だったけど、こいつもよく分からないやつであまり喋らなかった。なぜボンゴと呼ばれているのかも不明。
大衆食堂の国道が見える窓際のボックス席に座って天井すれすれに設置されたリモコンなしのテレビなんかを見ていると、カーくんが厨房で作ったホットケーキなんかを持ってきて、コーラと一緒に胃袋に流し込んでいた。
僕とボンゴがトランプをしていると、どこかに出かけていたカーくんが戻ってきた。何をしに行ったのかは分からなかったが、駅に行ったことは確かだった。カーくんは僕とボンゴが座っているテーブルに来ると、トランプをやっているのか、みたいな感じで見たけど、実はそんなのには興味はなくて、「前さ、白豚って呼ばれてたやついたろ?」と言った。
僕はカーくんを見た。カーくんはにやついていた。「白豚さんなら覚えてるよ」と僕は興味なさそうに言ってからいらないカードをテーブルに捨てた。
「すごい変わってたぞ」とカーくんは言った。
やっぱり興味なさそうに「顔が緑色にでもなっていたのか?」と聞くと
「まあそのくらい変わってた」とカーくんは言った。「駅でいきなり声かけられて、誰かと思ったら白豚さん。びびったね」
「どう変わってようが、白豚の過去を持つ女には興味ないね」

夜になるとカーくんの家はE.ホッパーの絵みたいになる。真っ暗な中に電気の灯りだけが窓の形に切り取られる。
写真はたくさんあるけどエロ本じゃなくてちゃんとした雑誌を見ていると出入口扉が開いた合図のカランカランという鈴の音が聴こえた。たまにわけの分からない客が来るのだ。僕は「ここやってないよ」と映画俳優みたいに扉には目もくれずに言った。これだけですんなり出てってくれればちょっとは様になるんだけど出て行く様子がない。視線をあげると目の前のボンゴが口をあんぐりあけて放心していた。何だって感じに扉の方を見ると、女が立っていた。
僕も多分ボンゴと同じ顔をしていたのだろう。女は僕を見て、それからボンゴを見て、あれ?という顔をし「私のこと分からないみたい」と言って微笑んだ。
厨房で食器を洗っていたカーくんが店内の様子に気付いて飛んで来た。そして「ユーちゃんよく来たね」と微笑んだ。
僕もピンク色の油の染みだらけのソファから飛び起きて「よく来たねユーちゃん」と微笑んだ。
白豚さんはすごいきれいになっていた。

ボックス席にカーくんと白豚さんが並んで座り、向かいに僕とボンゴが座った。昔の話で盛りあがり、カーくんの父ちゃん母ちゃんの話で盛りさがり、でもとても楽しいひと時だった。時間的にちょっとあやしくなってきた。
「よかったら泊まっていけば?」と僕は自分の家のように言った。「どうせ部屋空いてるし、布団もあるし、オバケも出ないし、おれたち変なことしないし」
そんな話をしていると国道から一台の車が勢いよく店の駐車場に入って来た。
「まただよ」と僕は言って「分かりそうなものだけどな」と立ちあがって追い返しに行こうとした。
すると、ユーちゃんが「もう帰らなきゃ」と言って僕を制し扉の方にかけ外に出た。
少し呆気に取られていると車の中から背の高いがっしりしたいかつい男が出て来た。
カーくんは立ちあがって後を追った。
男はユーちゃんの手首を乱暴につかむと引っ張り助手席に押し込み、自分も運転席に回り込み乗り込むと乱暴に車をバックさせた。車はUターンして国道を走り去った。
カーくんは一歩およばなかった。
僕もその頃には店の外に出ていた。
「何だよあいつ」とかと文句を言いながら僕とカーくんは店に戻った。

翌日、いつものようにだらだらと天井すれすれに設置されたテレビで甲子園なんかを見ていると店の扉付近にあるレジの横の電話が鳴った。出るとユーちゃんだった。
カーくんは駐車場にいた。ツルハシで穴を掘っているところだった。
昨夜カーくんは「あの男今度来たらぶっ殺してやる」と言っていた。
僕も調子に乗って「でもかなりいかつい男だったぞ」と言うと、
カーくんは「落とし穴を掘ればいい」と言った。
冗談と思っていたが翌朝、僕とボンゴはツルハシがアスファルトにぶつかるカーンカーンという音で目を覚ました。ボンゴの脚が腹に乗っていてそれをどけてカーテンをあけるとまともに陽射しが入ってきた。部屋は二階で窓の下に駐車場が見える。カーくんがツルハシで土を覆ったアスファルトを叩いていた。
店内のボックス席についてしばらくカーくんを見ていると飽きた。カーくんもすぐに飽きるだろうと思った。僕は「ユーちゃんから電話」とカーくんを呼んだ。
カーくんは汗を拭いながら店に入ってきた。カーくんの近くにいると暑かったからボックス席に戻った。カーくんはしばらくユーちゃんと話していた。というよりはずっとうなずいたり相槌を打ったりしていた。それから「分かった。じゃあね」と言って電話を切った。
「ユーちゃん何だって?」と聞くと
カーくんは「ユーちゃんも協力してくれるって」と言ってまた外に出て行った。

駐車場でボンゴとキャッチボール。
アスファルトは厚さ5センチ程度でしばらくすると土が見えた。そこからは「テコの原理」でアスファルトは簡単に剥がれていった。
「手伝おうか?」と気楽に言うと
「いや。これはおれの仕事だから」ときっぱり断られた。
「それならオムライス、作ってくる」と言うと
「それは助かる」とカーくん。
僕はボンゴと店に戻って厨房でオムライスを作った。オムライスはご飯を炒めて卵でくるめばいいだけだから簡単に作れる。
カーくんは穴を掘り続けた。毎日掘っていた。そのうちツルハシを使うことができなくなった。体の半分が穴の中に入りツルハシを振りかぶっても振りおろせないのだ。
「そろそろいいんじゃないの?」と声をかけると
「いやまだまだだ」とカーくんは言った。「こんなんじゃすぐ這いあがってくる」
日に日に穴は深くなっていった。今では脚立を使って穴の底に下りスコップで穴をさらに深く掘り下げていた。掘った土はバケツに入れていちいち上まで持ちあげていた。

僕とボンゴは食事担当になっていて食事ができるとカーくんを呼んだ。穴は上から見た感じだと10メートルはあるような気がした。でも10メートルだとビルの三階に相当するわけだからそこまで深くはなかった。
朝から雨が降っていた。穴はベニヤ板とビニールシートで覆われていた。久しぶりの休日といった感じだった。
「あんなに深い穴に落ちたら死んじまうぞ」と僕は言った。
「それが目的だからな」とカーくんは言った。
「いくらなんでも殺すのはまずいだろ」と僕は言った。
「それなら下にトランポリンでも置いとくか?」とカーくんは言った。
「そうしろよ」と僕は言った。「やつは穴に落ちた瞬間死の恐怖に襲われる。だがすんでのところでトランポリンに救われる」
「で、土に埋められて窒息死する」
「窒息死はまずいだろ」
「じゃあ酸素ボンベでも置いとくか?」
「そうしろよ。やつはトランポリンに救われたと思った瞬間、生き埋めの恐怖に襲われる。しかし酸素ボンベに救われる、と」
「で、這いあがってきたところをスコップの一撃を食らって死ぬ」
「やっぱり死ぬのかよ」
「それだけは譲れない」
「そこを譲んなきゃ刑務所行きだぞ」
刑務所と言って間が抜けているような気がした。
僕は気を取り直して「墓穴を掘るって言うだろ?」と言った。「お前も自分の掘った穴に自分で落ちるなよ」
ボンゴが食べていたオムライスを喉につまらせゴホゴホと咳き込んだ。



夏の終わり。
ユーちゃんと僕とボンゴは穴の前に立っていた。
穴を見つめていた。
カーくんが掘り、カーくんが落ちた穴だ。
カーくんは足の骨を折り、ただ今入院中。

1 H18-26(司法書士過去問集より)

次の1から5の事例のうち、判例の趣旨等に照らし、正しいものはどれか。
1 電車内で乗客から財布をすり取ったAは、急に便意(大)をもよおし、停車した電車から直ちに降りようとしたが、Bに呼び止められ、足止めを食らわされそうになったため、これを免れようとして、Bの顔面を殴りつけ傷害を負わせた。この場合、Aの行為は正当防衛であり、良識ある人々から称揚される。
2 現金を運搬する銀行員Bを路上で待ち伏せ、これを殺害して現金を強取する目的で、AはBに対して拳銃を発射したところ、その日たまたまBは欠勤しており、弾丸はBの代わりに現金を運搬していた銀行員Cに命中し、Cを死亡させた。この場合、AはCを殺害する意思はなかったので、Cに対する強盗殺人罪は成立しない。
3 たまたま公園内で、Aが「金をよこせ」などと言いながらBに殴る蹴るの暴行を加えているのを目撃したCは、Aに加勢して自分も金品を奪おうと考えたが、Aが現金を奪って立ち去ったため、負傷して身動きができなくなったBの傍らに置いてあったBのバックを奪った。傍らに置いてありながらバックを奪われたBは馬鹿である。
4 Aはゲームセンター内で知り合った11歳の少女と意気投合し、「気持ちのいいことをしよう。」などと言って少女を自宅に誘い、少女の事実上の承諾を得て、同女を姦淫した。人生とは一期一会である。
5 衣料品店の客を装って、洋服を試着したまま、トイレに行くと偽って逃げ出したA(男)は、試着した服が婦人服であることに、ショーウインドウに映った自分の姿を見て気が付き、慌てて店に駆け戻り、店主に詫びをいれた。この場合、Aの行為は愛嬌として許されてしかるべきである。

<正解4>
1誤り 称揚されはしない。気安くAを呼び止めたBの行為はむろん許し難いが、Aにしたって殴るほどのことではないではないか。過剰防衛の疑い有り!Aを厳重注意すること。
2誤り 成立する(残念ながら)。それより問題はBの欠勤した理由である。Bはすこぶる幸運な人物なのか。事によればBにつき強盗殺人罪の共同正犯が成立するかも知れないのでBを任意で事情聴取してみるのも一興だろう。叩けばホコリの出る人物の可能性大。
3誤り 馬鹿ではなく可哀想である。Aに暴行され現金を奪われ身動きができないB。そこにCが現れる。BはCが助けてくれる(警察に通報するなり協力してくれる)ものと思ったのではないか。それなのにCはBを更に凹ませる行為に出た。このCという人物はかなりタフな輩と思われる。
4正しい 人生とはまさに一期一会である。ただしこのエピソードとは関係がない。
5誤り Aの行為は婦人服を侮蔑する許し難いものであり、そこに愛嬌など欠片もない。独りよがりもいいところだ。

2 聞けば納得

友達の佐久間ミニスカートをはき
佐久間の彼女はダブダブのジーンズ姿だった
聞けば「ミニスカートでバイクの後ろに乗るのを
彼女がイヤがった」ということだった

友達の大瀬戸足をざっくり切られ
血を流しているのに叫び声ひとつ上げていなかった
聞けば「局所麻酔をかけてる」らしい
手術中だった

友達の長谷川難しい顔をして
週刊少年チャンピオン」を読んでいた
聞けば「俺はもともとそういう顔」らしい
そう言われればそうだった

友達の久保田両手両足血だらけで
呻きのたうちまわっていた
聞けば「ツメキリとノコギリを間違えた」らしい
お大事に

友達の仁田脇オーダーメイドのビー玉ドレスを着て
とあるパーティーに出席
まぎれるドス黒いビー玉
よく見たら「乳首」だった

3 建前と本音

すごい不良の草場君はかわいい柄のTシャツを着ている。
「仕方ないだろ。それが示談の条件だったんだから。かわいい柄のTシャツを着てれば粗暴な俺もなよなよするだろう、と考えたんだろうよ」
だけどこれは建前。本音は違うから草場君は爆笑する。
「ハハハハハ! 本当は俺はこういうかわいい柄のTシャツが大好きなのさ!」

かの子はフルフェイスのヘルメットをかぶって眠る。
「だって誰にも寝顔を見られたくないんだもの」
だけどこれは建前。本音は違うからかの子はほくそ笑む。
「ヒヒヒヒヒ! 本当は地震でタンスとかテレビが落ちてきても頭が潰されないために、なのさ!」

イカレ女の未知子は呪いで人を殺す力を持っているが使わない。
「だって私がそういう力を持っているということは、他にもそういう力を持っている人がいるはずで、私が使ったとなると他の人も使いだすに決まってて、そうなると私も安全ではなくなるから、私は使わないの」
だけどこれは建前。本音は違うから未知子は薄ら笑いを浮かべる。
「フフフフフ! 本当は私はそんな力は持っていないのさ!」

琢磨は足を洗わないから足が超臭くて皆からの評判は最悪。
「ちゃんと洗ってるさ。それでも臭いんだから仕方ないだろ」
だけどこれは建前。本音は違うから琢磨は肩をすくめる。
「ヘヘヘヘヘ! 俺は超のつくロマンチストなのさ! 俺は絶対に超臭い俺の足を舐めてくれる伴侶を探し出してみせるのさ!」

セレブ妻のサチは夫が突然帰らぬ人となり嘆き悲しむ。
「どうして? どうしてなの? あの人なしで私はこれからどう生きたらいいの?」
だけどこれは建前。本音は違うからサチは高笑いする。
「ホホホホホ! これで思う存分アイスが食べられるわ! 文句を言う人がいなくなったのだから!」