犯罪者

「普通」であることがそもそも難しい。自分たちのまわりにある「商品」はどれもプロの仕事で僕たちはそれに慣れている。その水準に驚くことはなく、それが「普通」だと考えている。そしていざ作る側にまわるとその「普通」の水準に到達できない。

真夜中の逃亡 1

(3200字)

マーくんの言うことにはいつも驚かされる。斬新で、とげとげしくて、ナンセンス。マーくんはたまに詩を書く。ぼくは好きだけど、先生も、両親も、友達も好きじゃないみたい。マーくんは死についての詩を書くことに志を燃やしている。ぼくがほめると、たいしたことないよと言う。でも本当にいいと思う。そうするとにっこり笑って首を傾ける。マーくんは金の時計をしている。ぼくには信じられないことだけど、マーくんの両親は優しいし、きれいなのに、マーくんは父も母も嫌いだと言っている。人間にはいくつもの顔があるんだ、とマーくんは教えてくれた。マーくんの家の、マーくんの二階の部屋で、マーくんは逃亡しようと言った。お金はいっぱいあるそう。俺についてこい、とマーくんは言った。

清ちゃんはマーくんのことが好きだと思う。マーくんも清ちゃんのことが好きみたいに見える。両想いなのに、でもふたりはそんなことおくびにも出さないみたいで、はためにはぼくと清ちゃんほど仲良く見えないし、ぼくとマーくんほど仲良くないように見えるけど、ふたりは本当は結婚の約束をしていると思う。三人でプールに行く時も、ぼくが真ん中に立って、ふたりは絶対にくっつかない。だからぼくはすぐにピンときた。悪ガキで、清ちゃんにぞっこんで、マーくんとはしょっちゅう衝突してばかりいる拓也は、ぼくほど敏感にふたりの関係をあやしんではいない。清ちゃんはおとなしい女子で、ぼくといると落ち着くみたいで、マーくんといると楽しいみたいで、拓也はちょっと怖いみたい。清ちゃんは、母子家庭で、お父さんがいないからそういう傾向があると、マーくんは分析している。マーくんは最近むずかしい言葉をよく使う。夏期講習に週四日も通っている。逃亡の話が出た時、清ちゃんも誘おうよと言ったのはぼくだった。

星野とマーくんがエッチをしたというのが、もっぱらプールサイドでのガキたちの話題だった。星野は学年一の有名女子で、はれんちで、唇にうっすらと口紅をひいていて、体育の先生の誘惑に失敗した、早熟な女子という噂が、上級生の間にもあったほどの女だった。少なくとも拓也を含めた五人とはもうすませているという噂もある。高校生の間でまわされていると言う人もいる。星野はプールに来ない。高校生とドライブしているのを見た。星野はぼくをガキだと思っていて、この前校門で会った時なんかはチョコバーをくれた。それから「わたしストリッパーになるのよ」とおっきな腰をふってダンスを見せてくれた。マーくんとの噂はもう流れている頃で、聞こうと思ったけど、星野の様子がいつもと違うようで、しゃべり方もすごくエッチな感じで、まともな会話は出来そうになかった。どうやら酔っぱらっているな、とぼくは思った。清ちゃんは全然気にしていないみたいだった。

世の中には不思議なことが多くて、星野と清ちゃんは大親友。拓也は「絶対に俺たちのことは清子には言うなよ」と星野に釘を刺している。星野はそんな時、鼻で笑って、玉の小さいやつ、と馬鹿にするのだった。ぼくのことは、毛のないおちびちゃん、と馬鹿にする。見たこともないくせに。星野とマーくんはお互いに一目置いている仲だったから、エッチしていてもおかしくはないと思った。噂の発祥源は、どうやらひょろひょろ服部のようで、彼に言わせれば、真夜中の公園でふたりは良いムードだった、ということになる。ひょろひょろ服部の取り巻きたちは、事の詳細を知りたがっていっぱい質問をぶつけた。だけどひょろひょろ服部の言うことはどれも普通じゃなかった。どうやら作り話らしいとみんな思った。窮地に立たされた服部は、真実を述べた。真夜中の公園でふたりを見たのが本当だけど、その後のことが全部推測。服部は「推測」と言って、「嘘」とは言わなかった。服部はプライバシーを尊重したなんて言ったけど、その嘘っぱちは服部の小心を証明するだけだった。俺だったら最後までばっちし見てやったな、と取り巻きのだれもが口をそろえた。だれも服部に同調しなかった。本当はだれも最初から服部の言うことなんて信用していなかった。服部はそういうやつ。

それがぼくもある日、真夜中の公園で星野とマーくんが一緒にいるのを見てしまった。なぜ真夜中の公園にぼくがいたのかというと、妹がサンダルを片方だけなくしたみたいで、妹は泣き出すし、母はぼくにお願いしたから。よくあることだった。妹はまだ五歳にもなっていないし、母はいつもパートで忙しい。部屋は小さくて息苦しいから、ぼくはいつも脱出の機会をねらっている。しかも父の機嫌もわるかった。だからぼくは喜んでサンダル捜しに出かけた。妹は三輪車でも、着せかえ人形でも、洋服でもなんでもどこかに忘れるたちで、ぼくも真夜中の捜索にはなれっこだった。ピンクのサンダルは公園の真ん中にあったけど、ふたりがキスしている姿を発見して、ぼくは植木の影にひそんだ。星野のつっぱった声と、マーくんの低い声がもぞもぞと聞こえてきた。だけど内容までは分からなかった。すべり台の下でキスした後、ふたりは並んで公園を出ていった。マーくんの家に向かっているみたいだった。連絡があって、次の日にマーくんと会うと、逃亡の話が出た。清ちゃんの名前を出したのは、皮肉だったのだけど、マーくんは気づかなかった。男どうしじゃなきゃ駄目だ、女は足手まといになるぞ、と言った。

公営住宅団地の中庭で、複雑な気分だった。さっきから清ちゃんはぼくの雰囲気が伝染したのか黙り込んでいる。ちょっと嫌な空気だけど、ふたりとも立ち上がり気はないみたいだった。緑の萌えた中庭は、とてもまぶしい。小さな子たちが、ぼくらをからかっては逃げていく。その時だけふたりとも笑った。ぼくはマーくんが好きだけど、嫌いになりつつあった。星野は尊敬しているけど、軽蔑しつつあった。清ちゃんのことはどんどん好きになっていくのか分かった。手を握りたかった。耳元で好きだよって告白したくなった。横顔を見たかったけど、見たら清ちゃんもこっちを見て、目が合いそうだったから、住宅の間の空を見ていた。太陽がやがて目の中に入ってきて、目をそらした。目の中が真っ白になって何も見えなくなった時に、清ちゃんが「もう帰らなくちゃ」と言った。ぼくらは立ち上がって、それぞれの棟に戻った。階段の所で、妹は砂場から持ってきた砂で山をつくっていた。ぼくらの部屋は棟の隅っこで、七階にある。

冷やし中華を食べてテレビを見て一時に部屋を出た。階段の所から中庭をのぞくとマーくんと清ちゃんが一緒にいた。声をかけようと思ったけど、どういうわけかぼくは黙ってふたりを見ていた。マーくんとお昼から逃亡の計画をねろうと話し合う予定だった。マーくんは塾の鞄を持っていた。紺色のとてもかっこ悪い鞄だ。言ったことはないけど、いつもそう思っていた。清ちゃんは手を前に組んでいて、スカートのしわを気にしている仕草をした。マーくんは急に清ちゃんの肩をたたき、マーくんと清ちゃんの親密な笑い声が階段まで響いた。やがてマーくんはマウンテンバイクにまたがって中庭を走り去った。ぼくは嫉妬した。清ちゃんは見えなくなってもずっと遠くまでマーくんの姿を見ていた。マーくんが帰ろうとしなかったらきっと、二時までも三時までもしゃべっていたと思う。ぼくはお昼だからって追い出されたのに。清ちゃんがいなくなるまでぼくは階段の影にしゃがんでいた。とてもみじめな気分だった。中庭をのぞき見しながら早く清ちゃんがどこかへ行ってしまえばいいと思った。妹の砂山をいじくりながら、公営住宅団地の中ならどこへでも自由に歩き回れたのに、初めて、どこにも行けなくなってしまった自分を感じた。清ちゃんが近所の下級生とバトミントンをしている声が聞こえた。何度も、出ていこうかと勇気を出してはためらった。

真夜中の逃亡 2

(3300字)

裏口から、ぼくは逃亡した。フェンスをこえて、学校とは反対の方向へずんずん歩くと、たちまちぼくは知らない雑草とかの世界の一員になっていた。マーくんとの約束はやぶった。スーパーマーケットでうろうろした。エアコンが涼しかった。ポケットにはジュース一本分のお金しか入っていなかった。いつもはマーくんが何でもおごってくれるから、何でも買えたのに。お金持ちになりたいと思った。マーくんよりお金持ちになって清ちゃんをものにしたかった。ジュースを飲みながら、ひとりで歩いているととても寂しくなった。すれ違うガキたちの洋服がいつもと違って見えた。よく見るとどれも知らない顔ばかりだった。ぼくがにらみつけてやると、五人くらいのガキたちがぼくを取り囲んで、「北小のやつやなお前」と一番背の高いガキが口火を切った。ガキたちが西小のやつらだということはさっきから察しがついていた。歩き方といい、しゃべり方といいくそ生意気だ。「マサハルってやつ知ってるよな」と一番背の高いガキが言った。そいつに頭一個ぼくは負けていた。「マサハルに会ったら言っとけよ、今度生意気言ったらボコボコにしてやるってな」背の高いやつがそう言うと、背の高いやつとその子分たちはぼくの肩に体をわざとぶつけてその場を離れていった。振り返ると背の高いやつはマーくんと一緒の紺色の鞄をぶら下げていた。そして足でガードレールをけっとばした。ひと続きの白いガードレールに触れると、振動が指先に伝わった。白い粉のついた指はズボンで拭いた。ぼくは迷子になっていたけどそこまで寂しくはなかった。マーくんの母がバス停の所でぼくを呼んでいた。

外車の助手席に乗るのははじめてだった。いつもぼくとマーくんは後部座席に座るから。センターラインのすぐ横をぼくは走っていて、自分で運転しているような気分だった。マーくんの母はサングラスをかけていて、エアコンは寒くないかと聞いてくれて、ラジオがうるさくないかとか、子供のぼくにも大人みたいに気をつかってくれた。ぼくは全部大丈夫だと言った。マーくんは間違っていると思った。マーくんの母がうちの母だったら良いのになと思った。でもマーくんの考えている逃亡のことは内緒にしておいた。母はマーくんのことを隅々まで知りたがった。ぼくはよく分からなかった。とうとうしびれを切らして、どうしてマーくんのことそんなに知らないの?と質問した。ぼくはじっと母の顔を見たけど、母は笑っているだけだった。別に不愉快ではなかった。マーくんの母にはうちの母のような切羽詰まった感じがなくて、優雅に見えたから、ぼくも上品になっていたのだと思う。ぼくはマーくんの言っていた言葉を思い出して、「おばさんには他にどんな顔があるの?」と質問した。「馬鹿ね」と母は言った。ぼくはまた大人になった気分だった。でも窓に写るぼくはガキのままだった。母はマサハルをよろしくと言った。母はぼくをマーくんの家の前に下ろすと、自分は家に入らず、サングラスをかけて颯爽と田舎道を走っていった。

マーくんは秘密をいくつ持っているのだろう。マーくんは清ちゃんと会っていたこともぼくには言わなかった。マーくんに対する不信感はつのるばかりだった。マーくんはいつもと変わらないように見える。でもぼくはいつもと違っていた。マーくんはきっと気づいていないと思う。外からでは見えない所が変わっていたから。ぼくは西小のやつらに会ったことも言わなかったし、母に送ってもらったことも言わなかった。もう何でも話せる仲じゃなかった。ぼくらはマーくんの部屋で「逃亡持ち物リスト」を作った。

スニッカーズ 二本
ジュース 四缶
シュガースティック 一袋
雑誌(サッカーとF1) 二冊
本 一冊
地図 一枚
下着 三セット大通り(これはマーくんの言葉遊び。サンセット大通りというのが、ロサンゼルスにあるそうだ)
帽子 ふたつ
かぜ薬 一瓶
シャツ 五枚
フランスパン 二本
ジャム 一瓶
テレビガイド 一冊
サングラス ふたつ
トランプ 一組
懐中電灯 ふたつ
卵 一パック

プールサイドでまた、服部が噂話をしていた。またマーくんのことで、マーくんと清ちゃんが付き合っていると言う。複雑な気分だった。ここ七日間、ぼくはふたりをさけて他のガキたちとつるんでバスケットとか野球とかサッカーとか女子をからかったりとかしていたけど、やっぱり本当の友達はふたりだけだと感じていたからだと思う。今日もひとりでプールに来て、水上バレーでガキたちと戦っていた。大変な盛り上がりようで、プールサイドにはマーくんと清ちゃんの姿もあったけど、仲間には加わらなかった。休憩時間にプールサイドでみんなして日向ぼっこをしていると、ふたりは帰っていった。服部は、ほらなって感じにぼくらのご機嫌をうかがった。ぼくとふたりの間にはもうとても大きな溝が出来てしまっているのをぼくは感じずにはいられなかった。真ん中に線があって、こっち側と向こう側。ぼくはいたたまれなくなって、こっち側からも出ていった。「またなー」とみんなが声をかけて、ぼくも「またなー」と手をふってプールを出ていった。コーヒーハウスからがやがやと騒々しい物音が聞こえて、そっちを見ると、星野と西小のやつらが窓に顔をひっつけてぼくの方を見て笑っていた。手招きするわけでもなく、げらげら笑って、騒いでいた。ぼくのことは、星野以外は分かっていないようだった。背の高いやつの顔は真っ赤で、目は充血していて、酒を飲んだなと思った。北小の校区内にやつらがいることが気に入らなかった。

「やつらバカでいやになっちゃう」と星野はコーヒーハウスから出て来ると言った。「やつらとエッチしたの?」ぼくは窓の中のやつらの方を見て聞いた。ぼくの言葉には棘があった。知ってるんだぞ、ぼくは、お前がマーくんとキスしていたのも見たし、その後マーくんの家に行くのも見たんだぞ、高校生と関係を持っているのだって知ってるんだぞって目で星野を見た。ぼくはちょっと株を上げたようだった。別に大して気にもしなかった。ぼくの目はするどく、星野につき刺さっていたと思う。星野はぼくの大人っぽい態度に満足しているみたいだった。「だれとエッチするかはわたしの勝手でしょ」というようなことを星野は言った。それから一通り愚痴をこぼすと、ぼくに「いつか絶対にエッチをすること」を約束させた。「毛が生えたら教えるのよ」とかと言って。それでぼくに清ちゃんへの無言の口止めをしたつもりだろう。異論はない。星野は腰をふりふりガキどもの所に戻って行った。星野はやつらにアイドルのように迎えられた。くそったれ、とぼくは思った。

電話でのマーくんのテンションの高さには興ざめしてしまった。それは装った明るさではなく、本物の明るさだった。七日間の事実上の音信不通で、プールの一件で完全に立場を示したのに、この明るさ。言葉をもって非難することはしなかった。どうしたの、今日さ、清も俺もお前とどっか行こうと思ってたのに、とか何とか言っていた。ぼくは電話の向こうに清ちゃんも一緒にいるような気がした。嫉妬心は不思議になかった。本物の軽蔑が頭をもたげていた。それはマーくんに対してだけではなく、清ちゃんに対しても同じ気持ちが生まれていた。ぼくは相づちを適当にうって、合理的に電話をさっさと切れるように仕向けたけど、今日のマーくんの無神経さは異常なほどに感じられた。後半はちょっとはぼくの心境の変化を読み取ったような所もあった。でも後ろで清ちゃんに励まされて頑張っている感じだった。マーくんはぼくのある言葉を待っていたのだと思う。でもぼくは絶対にその言葉を口にするものかと意地になっていた。つまり、マーくんと清ちゃんって付き合ってるの?と。残念でした、ぼくは絶対にマーくんの気持ちを楽にはさせないぞ。ぼくはぼくの方から電話を切るのはこの問題から尻尾を巻いて逃げることを意味するのだということを、つまりふたりの仲を認めるということを意味するのだということを知っていた。ぼくは勝った。

真夜中の逃亡 3

(3200字)

ふたりは逃亡した。マーくんの母はぼくが学校の校庭で拓也や服部やその他のガキや女子らとボールをぶつけあったり駆け回ったりしていると、派手な格好で現れ、ぼくらの注目をひいた。かなり取り乱していて、だれかを探している様子だった。髪が乱れ、サングラスは場違いに輝いていた。母はぼくを探していたらしかった。ぼくを見つけるとサングラスを取って駆けてきた。母はあせっていて、ハイヒールに足を取られそうだった。「マサハルがいなくなったのよ」と母は言った。赤いパンツスーツの生地の匂いが化粧に混ざって鼻についた。ぼくは母の躍動感に圧倒されて何も言葉が出てこなかった。ぼくの周りには人だかりが出来ていた。サッカーボールが足もとに転がってきても、母は気にも止めなかった。ぼくを差し置いて女と逃亡するなんて、もうこれでマーくんも終わりだな、とぼくは思った。こんなにたくさんの証人がいては首はつながらない。ぼくはもうとっくに分かっていた。「それが清ちゃんも一緒らしいのよ」と母が言うと、周りからどよめきが起こった。こんなのがぼくらの一番のお気に入りの事件なのだ。みんなそこら中に言いふらそうとそわそわしながらかたずをのんでいた。気の早いガキはもうプールの方へ駆け出していた。ぼくは新聞記者になってガキどもの期待に応えてやった。細かいいきさつや、メモはなかったかと、まさにぼくの一挙手一投足にみんなが注目した。ぼくは得意になっていた。母に手を握られて、駐車場の外車に乗り込み走り去るまで、ガキたちが見送ってくれた。彼らの尊敬を一身に背負い、母の頼みはぼくだけって感じで。でも、ぼくは追跡に駆り出されたものの、ぼくに出来ることは何もないように思えた。星野のいたコーヒーハウスで、ぼくらは清ちゃんのお母さんと合流した。

清ちゃんのお母さんは清ちゃんみたいにおとなしい感じの人だった。でも今回の事件ではおとなしいだけではいけなかった。清ちゃんのお母さんも取り乱し、困惑していた。青い顔をしていて、スーパーマーケットでのパートの格好そのままだった。ぼくはソーダ水を、ふたりはアイスティーを前に、テーブルでは様々な事情が交錯していた。清ちゃんのお母さんは、てっきり清ちゃんがマーくんの家に泊まっているものと思っていたらしい。マーくんの母は、マーくんがぼくの家に泊まっているのだと思っていた。それを聞いてぼくはいい気持ちがしなかった。清ちゃんの母の話にも、マーくんの母の話にも納得できない所があった。ぼくは指摘しなかったけど、きっと清ちゃんのお母さんはだれかと付き合っていて、清ちゃんが家にいないことが好都合で、マーくんの母に確認もしなかったのだと思う。電話をした時、マーくんが出て、お母さんに代わってくれない?と言ったそうだけど、マーくんの母はいつも通り留守だった。マーくんの母がいつも夜から朝までほとんど家にいないのは、ぼくも知っていた。マーくんの母は朝になって玄関かどこかで置き手紙を見つけたのだろう。警察にふたりは叱られるな、とぼくは思った。手紙には立派なことが書かれていた。

「ぼくと清子は、ふたりで生きていきます。絶対に追わないでください。」

そしてふたりの署名も入っていた。その場の空気は、重苦しいというより、乱れていた。警察に連絡したら?と言ったのはぼくだった。一瞬、大人ふたりの目が合った。そうね、としばらくして呟いたのは、清ちゃんのお母さんだった。マーくんの母も反対するわけにはいかなかった。オーストラリアに単身赴任している父に知られるのが怖くても。ぼくはいつかマーくんから、オーストラリアと聞いて、開いた口がふさがらなかったのを覚えている。ぼくにはどんなに遠くなのか、想像もつかなかった。まさかそこに行く人が近くにいるのはなおさら。「オーストラリアか」とぼくは言った。「そうだ、ふたりはきっとオーストラリアに行ったんだよ」マーくんなら行けると思った。清ちゃんのお母さんの驚き方と、マーくんの母の反応の違いは面白かった。「まずは警察に連絡するのが先ね」マーくんの母がそう言って、お開きとなった。コーヒーハウスの入口で、麦わら帽子をかぶった星野と出くわした。

星野は耳にウォークマンをつけて、ガムをかんで、口紅をひいて、赤いサングラスをかけて、自分だけにしか聞こえない音楽に合わせて体を動かしていた。立ち止まると足でリズムを刻みながら、ガムをくちゃくちゃとやった。ぼくが口火を切った。「マーくんと清ちゃんが逃亡したよ」さすがの星野も少し反応を見せた。ガムをかむ口もゆっくりになったし、足のリズムも今にも止まりそうだった。星野はガムをペッと吐き出すと、ウォークマンを耳から取って、サングラスをはずした。星野はやっぱり学校のガキどもとは違った。目はにやりとして、ふたりの行為を讃えるかのように口もとがゆるんだ。とうとうやったか、と言いたげだった。「カケオチっていうのよ、それ」と星野は言った。「知ってるよ、帰ってくるかな」「馬鹿ね、帰ってくるわけないじゃない、カケオチしたのよ」星野との逃亡の話はそれだけだった。星野の勝ち誇ったような笑い声を聞きながら、真夜中に逃亡していくマーくんと清ちゃんの姿が目に浮かんだ。ぼくは意味もなく笑い出していた。突然降りだした雨も、ぼくは楽天的に受け止めた。ぼくは急速に星野と仲が良くなったような気がした。ぼくらは走って雨のしのげる場所を探し始めたけど、ぼくはいっこうに雨に濡れても構わなかった。結局、ぼくの住む公営住宅団地の駐輪場まで来て、そこに入った。雨は頭上のトタンにさえぎられ、音を立てていた。空は急速に雨雲に覆われ、辺りは一気に暗くなった。星野は麦わら帽子を取った。シャツが濡れて乳首の形がふくらんだ胸の突端に浮き上がっていた。ぼくは勃起した。完全に星野に見抜かれているような気がして恥ずかしかった。ぼくは裏庭の、だれにも見えない所に行って、星野とエッチをしたかった。ぼくが恥ずかしげもなく星野の目を見ると、「駄目」と言われた。それから星野は、勃起してるんでしょ、とわざわざ口にしなくてもいいことを暴露して、ぼくが地面を見て赤くなるとまた笑い出した。ぼくは最初はその笑い声に不快感を覚えたけど、やがて星野に乗った方がいいと思ってぼくも負けないくらい笑った。

特別な関係になった気がした。でもそれはとても一時的なものに思えた。ぼくは星野を家まで送って行った。コンビニの角を曲がった所で、星野はここまででいいと言った。その表情はいつもと違って見えた。ぼくは星野の後をつけた。星野の家が立派な屋敷だと思っていたぼくは、壊れかけた船のような家に星野が入っていくのを見てびっくりした。表札には確かに「星野」とあった。木の板に書かれていて、墨汁の文字が雨に濡れ、下に垂れていた。そこでぼくは彼女のいい服や、サングラスや、麦わら帽子や、そういうものはみんな男たちに買ってもらってるんだなと思った。金欠のぼくには用はないってわけだ。彼女はホラばかりかましていた。自分を金持ちだといつも言っていたから。それにみんなも納得していた。朝、待ち伏せして星野の家の前で星野をつかまえた。それでぼくの威信が失われるとも知らずに。星野は三秒くらい止まっていた。でも鼻をつんと尖らせると、ぼくの所まで来てにらみつけた。ポストから新聞を取ると、彼女はボロ屋敷に向かって「じじい」と叫び、新聞を投げた。星野はぼくの肩をよけもせず、すたすたと歩いていった。ぼくは屋敷から「じじい」が出てくるまでそこに佇んでいた。ぼくは彼女と特別な関係にはなれなかった。プールでの話題はもっぱらマーくんと清ちゃんの逃亡だった。ぼくは二キロくらい泳ぎたかったけど、疲れてプールサイドの噂の中で日向ぼっこをしていた。太陽の光を浴びていると、いろいろなことを忘れた。

デブ奇譚 1

(4800字)

その事件が迷宮入りするとともに捜査官の池永も迷宮入りした。同僚は池永をからかう。
「おっ、名球会入りした池永君! いったいどんな記録を打ち立てたんだ?」
迷宮入りした池永をかばうのは女性捜査官の進藤直美だけだった。彼女は事件はもかくとして池永を迷宮から出さなくてはと必死だった。それは辞書を参照する限りとても困難なことのように思われた。迷宮とは
「中に入ると出口が分からなくなるように造った、複雑な建造物を指す」
からだ。しかしベットでの池永は迷宮入りしているとは思えないくらいのすごい精力を発揮するのだった。そのせいで直美の声は日に日に野太くなっていった。直美の彼氏の町田は彼女の性器が自分の性器にフィットしないほどに拡がりはじめていることに気付いていた。別れるのは時間の問題だった。セックスの回数は減り禁句がふたりの関係をギクシャクさせていった。もっともギクシャクしているのは町田の方で彼女は素っ気ないものだった。
「最近のあんたおかしいよ」
と高級レストランで食事をしている時に直美が言うと
「そうでもないよ」
と彼氏は妙に弱気な声を出した。
「もしかして」
と直美は手を止め町田の目をのぞき込むと「もしかしてなの?」
と聞いた。町田は彼女が何を言いたいのか分からなかったが
「ああ」
と答えた。すると彼女は町田の昔からの夢が叶ったかのように
「良かったじゃない! 本当に!」
と言い
「たまには連絡してね」
と謎の言葉を残し、ナイフでニシンを切りフォークで口に運ぶと
「おいしい」
と笑みを見せた。それが町田が直美に会った最後の日で、町田はその日以来行方不明である。町田がどこに行くかは直美しか知らず町田には知る由もなかった。しかしどこにも行かないわけにもいかず町田は家を出たのだったが、行きたい場所などどこにもなかった。

迷宮入りしたその事件は8年前の5月9日に起きた。つまり迷(May)宮(9)の日である。あたかも事件はそうなることをはじめから決められていたかのようだ。池永は粘り強いことで有名な捜査官で「粘着テープ」と呼ばれていた。現場は三階建て木造アパートの一室で、ベランダには洗濯物が干しっぱなしだった。車から下りるなり二年目捜査官の矢吹が
「あそこが被害者の部屋です」
と池永に言い池永はベランダを一瞥すると
「デブ女か」
と言った。憂さ晴らしに拳銃をぶっ放すように口をぶっ放したわけだ。その頃進藤直美は16才の女子高生で翌年には17才になる予定だった。つまり彼女は2月29日生まれではなかった! 彼女は父親の仕事の関係上引っ越しを繰り返していた。それと関係はないとは思うのだが日記とは無縁だった彼女は、しかし8年前の5月9日はハッキリと覚えていた。それは彼女の「初体験」の日だった。適度にパンクっぽい人がタイプでゴールデンウイークに逆ナンして知り合った「ディコンストラクションズ」というアマチュアバンドのギタリストTAKA(当時19才)と真昼のラブホテルで「休憩」したのだった。ちなみに当時「ディコンストラクションズ」のボーカリストだった安田ファッキン和也はその頃高校時代の後輩・百合子さんとエジプトにともに初めての海外旅行に行きそこでスフィンクスの絵葉書に
「お前に似てないか?」
と書いてベーシストの佐久間に送った。佐久間の彼女(当時)はそれを見て
「似てる!」
と言ったらいきなり殴られたそうだ。「ディコンストラクションズ」はメンバーそれぞれの音楽性の違いからその後解散しTAKAはエレキギターを捨て安田ファッキン和也はミドルネームを捨て新たなバンド「トーテンポール」を結成し佐久間は彼女に捨てられ「トーテンポール」のメンバーからも外された。

殺された「デブ女」は本名を加藤朋美といった。当時29才だった彼女は生きていれば37才で、****がちょうど****なっている年頃だからシックス・ナインはちょっと勘弁してほしい気がする。彼女は明るい性格でいつも笑顔の人気者だった。ベットに寝そべって少女漫画を読み股間を布団でこするのが趣味だったが、
デブ専の彼氏が次から次へと現れるため18才から29才まで彼氏が途絶えることはなかった」
と彼女の高校時代からの友人・溝口容子は言っている。池永は彼女がこまめにつけていた「セックス日記」を読み彼女と性交渉のあった「デブ専」たちに会って話を聞いた。しかし「デブ専」ではない池永は彼らの話がほとんど理解できなかった。容疑者が3人に絞られたかと思えば8人に増え、うんざりした気分に追い打ちをかけるように22人に増えた。池永は熱くなった頭を冷やそうと蛇口をひねって頭を突っ込んだ。すると水とともに容疑者がひとりふたりと流れていくのが分かった。最後まで流れないのが犯人だと思い頭を突っ込んだままにしておくと思惑通り5人にまで絞られた。その時
「何やってんすか先輩?」
と矢吹の邪魔が入り、ボトッと5人の容疑者が同時に落ちてしまった。
「ああクソ!」
と池永は叫んで落ちた5人を取り戻そうとしたが無情にも5人の容疑者は排水口に吸い取られてしまった。
「馬鹿野郎!」
と池永は叫び矢吹の胸倉をつかんだ。しかし次の瞬間池永は地面に押さえつけられていた。矢吹は柔道の有段者で希望者に護身術を教える先生でもあったのだ。トイレから出てきた直美は池永が矢吹に押さえつけられている光景を目にし
「どうかしたんですか?」
と聞いた。

事件は当初簡単に解決すると思われた。しかし池永を伴って迷宮入りした。
「まるで EXTERMINATOR!を読んでるみたいだ」
が池永の口ぐせだった。池永は邦訳された「おぼえていないときもある」でEXTERMINATOR!を読んだのだが「おぼえていないときもある」を読んでるみたいだ、とは言わなかった。自分が原文で読んだように見せたいわけではなく、もっぱらリズムの良し悪しの問題だった。だいたい池永がそう言う時はベロンベロンに酔っ払っている時で翌朝直美が
「昨日エクスターミネーターを読んでるみたいだって言っていたけど何のこと?」
と聞いても
「おぼえていない」
と言うだけでそれがウィリアム・バロウズの小説で1997年に「おぼえていないときもある」として邦訳がペヨトル工房から出版されていることを知ったのはずっと後になってからだった。普通の本屋には置いてなかったため注文して直美は目を通した。なるほど、と直美は思った。読後の征服感がまったくなかった。「デブ女」殺害事件に則して考えると頑張っても少ししか手に入らないもどかしさのようなものが確かにEXTERMINATOR!を読んでるみたいだ、と言えるかも知れないと思った。突如直美は池永が発狂するのではないかと思った。直美はEXTERMINATOR!を読み返す気などおきなかったが池永は何度も読み返し答えを見つけ出そうとしているようなものなのだった。池永は少し頭を冷やしたほうがいいと直美は思った。ちょうど池永が小便プレイを望んだので直美はラブホテルのベットに仰向けになった池永の顔に小便をかけた。直美は小便をかけられ目をつむり口を半開きにした池永の幸せそうな顔を見ているとこのまま小便が止まらなければいいと思った。池永も同じことを思ったが小便は止まった。ふたりはとても悲しい気持ちになってベットで抱き合ったが仕方なかった。

ある時池永が顔を洗っていると蛇口から容疑者がボトボトと落ちてきた。驚いた池永だったが素早く排水口に栓をした。あまりにたくさんの容疑者が次から次へと出てくるため水を少しづつ容疑者を逃がさないように捨てる必要があった。そのうち容疑者であふれ返るくらいにまでなった。池永は走って掃除用具の置いてある部屋まで行った。そしてバケツをつかむと走って戻った。矢吹はバケツを持って走ってくる池永の姿を見つけた。矢吹は
「誰だよ」
とつぶやいて蛇口をしめたところだった。池永は洗面台の前に立っている矢吹を見つけると
「おい! さわるな!」
と走りながら叫んだ。
「あ、これ池永さんの仕業でしたか」
と矢吹はバツの悪そうな笑みを見せ水を出そうと蛇口に手を伸ばした。
「馬鹿野郎さわるな!」
と池永は叫び走ってくる勢いのまま矢吹にタックルした。池永は大学時代ラグビー部に所属していなかった! 一方の矢吹は柔道の有段者らしく素早くしっかりと「教科書通り」と顧問の故・深沢重吉先生にほめられたことを今も忠実に守り通していますと故・深沢重吉先生への感謝の気持ちを表現するかのような完璧な受け身をとったが池永は地面に顔をぶつけバケツは手から離れ不愉快な音をたてながら転がった。トイレから出てきた直美は廊下で重なり合う二体のオブジェのようになった池永と矢吹を目にし
「どうかしたんですか?」
と聞いた。

テナントビル清掃員による女子トイレ盗撮事件と「デブ女」殺害事件には何の関係もないように思われた。しかし押収したビデオテープを見ながらオナニーをしていた池永はそこに「デブ女」そっくりの女を見つけた。彼女と性交渉のあった「デブ専」18人のお墨付きをもらい池永はその女が加藤朋美の生前最後の姿であることを撮影日時が5月9日午後4時18分であることから判断した。撮影場所は丸の内にある某テナントビルで彼女の勤務する会社のオフィスのあるビルとは違った。彼女はなぜこのビルのトイレで用を足したのか? 池永が捜査を進めるとさらに興味深いことに彼女の使用したトイレが某テナントビルの10階のトイレであることが判明した。1階のトイレなら部外者が立ち寄り用を足してさっさと退館することも考えられるが、10階となるとエレベータに乗り、あるいは階段でそこまであがらなければならない。つまり彼女は用を足すためにこの某テナントビルに入ったのではなかったのだ。彼女は用もないのに丸の内にある某テナントビルの10階にあがり用を足した、ということになる。いや違う、と池永はすぐさま自分の出した答えを否定した。「用」と「用を足す」の「用」を区別しなければならない。つまり彼女はこの某テナントビルに何かの用があり入館し用を足したのは何かの用のついでだった。池永は一挙に展望がひらけた気がし興奮した。しかし彼女がそのビルの10階に足を運んだのはそこにあるテナントが彼女の勤める会社の得意先だったからでありそれ以上の意味はなかった。捜査はまたも行きづまった。昼間っからボーッとしている日が多くなった。不意にある疑問が生じた。いい年になって未だにオナニーする自分はカッコイイだろうか?

リストラされた元サラリーマン・吉岡一夫はそのことを家族に言えず毎日行く当てもないのに出勤と称して家を出て川辺や鉄橋の下なんかで寂しく物思いにふけっていた。元サラリーマン・吉岡一夫は毎月消費者金融ヤミ金からサラリーマン時代の給料分を借金し自分の口座に振り込んでいた。家族にリストラされたことがバレ消費者金融ヤミ金から借金していることがバレるのは時間の問題だった。就職のアテも返済のアテもなく就職する気も返済する気もなかった。ある夜元サラリーマン・吉岡一夫は妻と二人の娘を絞殺し自分も死ぬことを思いついた。自分が首を吊って死ぬのは一番最後でなければならないと肝に銘じ、妻と二人の娘の絞殺順序はどうでもいいと元サラリーマン・吉岡一夫は考えたが、あやうく自分が最初に首を吊りかかり、気を取り直して下の娘、上の娘、妻の順で絞殺していった。池永はこの事件を聞きこんなことがあっていいのかと思い4つの死体が出た事件より自分が抱えるひとつの死体が出た事件の方が難解なのはなぜだろうと不思議に思った。池永はこう考えざるを得なかった。「デブ女」殺害事件には少なくとも4つ以上の死体が出ている。

デブ奇譚 2

(4800字)

ある日こんなささいなことがあった。池永と直美が喋りながら廊下を歩いている時だった。池永は小便がしたかったから男子トイレに入った。池永は用を足す自分の横に直美がいないことに気が付いた。さっきまで一緒に喋り歩いていた直美はどこにいったのだ? と不思議に思ったのも束の間ここが男子トイレであり女の直美は入れないのだと気が付くと池永は苦笑した。
「おれも疲れているのかな? 」
とつぶやこうとして月並なことを月並に思おうとする人間に月並以上のものが手に入るわけがないと思い性器を歓喜させるように腹筋に力を込め膀胱を圧迫した。男子トイレを出ると廊下に直美はいた。池永は閃きのようなものを覚えた。人間にはそれぞれに入れる場所と入れない場所がある、と池永は思った。小学男児は母親の布団にもぐり込めるだろうが高校球児は無理だろう。つまり一人暮らしする自分の部屋で殺されていた加藤朋美を殺した犯人は加藤朋美の部屋に入れる人物だ。一人暮らしの女性は例え相手が顔見知りでも深い関係でないなら、あるいはこれから深い関係になることを望む人でないなら部屋に入れることはないだろう。つまり犯人は彼女と深い関係にあった人物、あるいは彼女が好意を寄せていた人物だ。そう気が付いた時池永はすでに自分が彼女と深い関係にあった「デブ専」たちの事情聴取を済ませていたことを思い出した。池永は自分の無意識の働きに内心驚いていた。しかし驚いたのも束の間だった。池永は男子トイレに女の清掃員が臆することもなく入っていくのを目にした。女でもそれが清掃員なら男子トイレに入れるのだ、ということに池永は気が付いた。

「どうかしました?」
と直美は池永に聞いた。池永の大きな頭の中で、どのような思考の劇が繰り広げられているのか、直美は知りたかった。池永の大きな頭の中では、次のような思考の劇が繰り広げられていた。女でも清掃員なら無条件に男子トイレに入れるわけではない。それは女であり清掃員である彼女にとって女と清掃員のどちらが勝っているかという問題である。清掃員が勝っていれば男子トイレに入れるが女が勝っていれば例え清掃員でも入れないだろう。それを「デブ女」殺害事件に則して考えるとどうなるか? この場合彼女の部屋は男子トイレとなる。男子トイレに入れるのが男子だけではないように、彼女の部屋に入れるのも顔見知りであり深い関係にある人、あるいはこれから深い関係になることを彼女が望む人だけではない。彼女が望まない部外者が強引に押し入ってくるケースもあり得るのだ。そこまで考えて池永は、それも念頭に入れて俺は捜査を進めてきた、と思い、それにしても、と思考を新たな方向に向け、男子トイレである彼女の部屋に女である彼女が住んでいた、というのも妙な話だ、と思った。彼女はなぜ男子トイレなどに住んでいたのか? 男子トイレには黙っていても男が入ってくるからか? それほどまでに彼女は淫乱だったのか? いや違う、と池永は自分の腹に鉛の玉をぶつけるように否定した。こんなのは言葉遊びでしかない! 彼女が住んでいたのは男子トイレではなく比喩としての男子トイレだ。その男子トイレは女子トイレにもオメコにも肛門にも変換可能なのだ。彼女はオメコに入れるものを自分で選択できるがオメコを彼女が完璧に管理できるわけではない。「中出し」されたり細菌に侵入されたりレイプされたりする可能性は常にあるのだ。池永は自分の大きな頭に唾を吐きかけるように、犯人が分からないのに、犯人を絞る、なんてことができるか、とつぶやいた。いや違う、と池永は再び即座に自分を否定した。

池永が迷宮入りしているのは池永がすでに調査済みの箇所を再度たどり直していることからも明らかだった。池永の考えることの大半はすべてすでに考えられた事柄だった。池永は迷宮をさ迷うひとりの男だった。幻覚や幻聴をそれと気付かず見聴きする狂人だった。実際に見た光景、実際に聴いた声や音がベースとしてあったが、それは更新され歪められ彩色されて再現されたものだった。池永はそれに気付かなかった。直美は
「もう何だってやってやれと思った」
と言う。
「もう何をやっても無駄なら何だってやってやれという心境だった」
と言う。直美がそう思うほど池永は成す術もなく狂っていたのだった。池永はもう直美が捜査のどの段階で捜査班に加わったのか分からなかったし分かろうともしなかった。何の疑いも抱くことなく直美が捜査のはじめからいたことになっていた。そしてあるいは池永にとって直美は池永のすべてのようなものだった。直美が池永を産み直美は常に池永とともにあった。二年目捜査官の矢吹は事件発生当初から二年目捜査官であり池永にとって矢吹はいつまでも二年目捜査官であった。池永は「デブ女」に「X∞増殖女」というもうひとつのアダ名をつけていたが矢吹の「二年目捜査官」もアダ名だった。しかし三年目になっても四年目になっても二年目のようだったからそうアダ名されたのかあるいは一年目から二年目のようだったからそうアダ名されたのかあるいはまた別の理由からなのか矢吹がいつそのアダ名をつけられたのか判然としないため「デブ女」殺害事件当初矢吹が何年目の捜査官だったか池永は分からなかったが分かろうともしなかった。何の疑いも抱くことなく池永にとって矢吹はいつも二年目捜査官だった。また池永にとって「デブ女」は殺害以前から「デブ女」であり「X∞増殖女」だった。直美が池永を産んだように殺害が「デブ女」を産み直美が池永のすべてに波及していったように殺害が「デブ女」のすべてに波及していった。

男子トイレが池永の頭蓋骨の内側にこびりついてなかなか離れなかった。歯の裏側ならまだしも頭蓋骨の内側では爪楊枝も届かなかった。池永は思い出す。ある飲み屋の男子トイレで小便をしていると2人組の女が間違えて入ってきたことがあった。ある別の飲み屋の男子トイレで直美とセックスしたこともあったし、また別の飲み屋には便所はひとつしかなく男女共用だった。またある別の飲み屋の便所で顔を洗っていると父親に連れられて5、6才の少女が入ってきたこともあった。池永は考える。「デブ女」は複数犯に間違えて殺されたのか。「デブ女」は一人暮らしだったが半同棲状態の男がおりその男に殺されたのか。あるいは彼女はそもそも一人暮らしではなく男と同棲しておりその男には連れ子がいたのか。連れ子が殺したとすれば連れ子には新しい母親がデブだということに耐えられなかったのか。あるいは血の滲むようなダイエットに取り組んでいたが一向にむくわれない彼女を見かねた連れ子がそれならば大量出血させてやればいいと自分のブラックなグッドアイデアに酔いつつ「デブ女」をナイフで刺したのか。連れ子が「デブ女」を殺害したことを知った父親は連れ子とともに失踪したのか。しかし彼女の部屋には別の男が一緒に暮らしていた形跡はどこにもなく彼女の部屋に出入りする子供の姿を見た者も彼女の部屋から子供の声を聴いた者もいなかった。となると「デブ女」はやはり誰かと間違われて殺されたのだろうか、と池永は思った。謎に満ちたこの事件には少なくとも4つ以上の死体が出ているはずだが、今のところ彼女の死体しか発見されていないのは彼女が間違えて殺されたために、他の殺人事件との関係を通常の思考では見つけられないからではないか。そう考え続ける池永は犯人逮捕のためなら自分を極限まで追いつめる男であった。

「デブ女」殺害事件は5月9日迷宮の日に起きたが、実は29年前の同じ日に「デブ女」は誕生したのであった。迷宮の日に生まれ迷宮の日に迷宮入りした「デブ女」。しかし29年前のその日に生まれ29年後のその日に迷宮入りしたのは彼女だけではなかった。彼女の双子の姉がそれだった。ふたりは生き別れ互いに自分が双子の片割れであることを知らなかった。互いに生き別れた姉、生き別れた妹を補うようにふたりはともによく食べよく太った。ふたりは自分の異様なほどの食欲の理由を知らなかったが実はそういう理由だったのだ。ふたりは一卵性双生児でありともによく食べたこともありよく太りよく似ていた。ふたりがなぜ生き別れることになったのか、ふたりの父親は行方不明であり母親はすでに他界しているためハッキリとしたことは分からない。しかし母親が他界したのは胎内にいた頃からデブだったふたりを産んだ直後だった。医者はそうなることを懸念しどちらか片方を堕ろすことを母親にすすめたが母親は拒否した。その結果の死だった。よく食べよく太った赤ん坊を男手ひとつで育てるのは難しかった。ふたりの父親は父親としての自覚に乏しくふたりを捨てた。捨てられたふたりはそれぞれ別の家庭に引きとられた。まだ1才にも満たなかったふたりはそんなことは知る由もなくすくすくとよく太りよく似よく育った。

やがて成人したふたりは自身の来歴を知らされたかも知れない。しかしふたりが再び出会うのは29才の誕生日、とある「デブ専」を通してだった。「デブ女」も傍目には相当危なっかしい日々を送っていたが、彼女の姉も同じだった。彼女の姉・後藤沙織はデリバリーヘルスで働いていた。「デブ専」の相手をできるのはそれほど多くはなかった。なぜならデブでなければならないからである。沙織の在籍していたデリバリーヘルス「レインボー」代表取締役・村井裕二は慢性的なデブ不足に頭を悩ませていた。広告チラシに
「デブ大募集!」
と印刷して募ったがデブは来なかった。沙織が出現したのは半分あきらめかけた頃だった。村井裕二は歓喜し自身は「デブ専」ではないにもかかわらず嬉しさのあまり沙織に抱きついた。そして「自動車・携帯電話持ち込み」で雇った送迎係に自動車を軽からワンボックスに買いかえるよう要請した。金がないと渋る送迎係に村井は
「彼女を送迎できないのであれば送迎係失格だ、お前は送迎係として彼女を送迎できないことにプライドを傷付けられないのか、そんな生半可な気持ちで送迎を生業としているのか」
と怒鳴り散らしワンボックスに買いかえさせた。その意味でも沙織はデリバリーヘルス「レインボー」に鳴り物入りしたと言っても過言ではなかった。「デブ女」沙織は「デブ専」相手に期待通りのフル稼働をしてみせた。いや、期待以上の働きをした。沙織は単なるデブではなかったのだ。デブの中のデブだった。それはとてつもなく太っていたということではなくとてつもなく輝いていたということだ。

彼女は「デブ専」を虜にした。虜となった「デブ専」は次から迷わず彼女を指名し
「彼女でなければならない」
と言い
「とにかく早く彼女に会いたい」
と言い
「今すぐ連れてきてほしい」
と言い
「気が狂わないうちにお願いします」
と言った。沙織はフル稼働していたがそれでも追いつかなかった。彼女は体力の限界を感じたわけではなく体力のとてつもない過剰を感じ外国に飛び立った。一週間の予定だったが彼女はなかなか帰ってこなかった。「デブ専」は我慢できなかった。「レインボー」の電話は一週間鳴りっぱなしだった。
「バカンスに出ている」
と言っても信じる者はいなかった。一週間の辛抱だと村井は「デブ専」に言うように電話係の女に言ったが一週間が過ぎても沙織は帰ってこなかった。沙織は旅行先で恋に落ちていたのだった。デリバリーヘルス「レインボー」は「デブ専」の電話ラッシュを受け営業を停止せざるを得なかった。「レインボー」は「サーカス」に店名を変え電話番号を変えた。その他は一切変えなかったが「デブ専」たちは成す術もなかった。デブは他にもいると彼らは自分を納得させざるを得なかった。

デブ奇譚 3

(4900字)

「デブ女」殺害事件の被害者である朋美が沙織と間違えられたのは言うまでもない。「デブ専」のなかには突然姿をくらました沙織に憎しみを抱いている者がいた。何人もいたが沙織そっくりの朋美を見つけたのはそのうちのひとりだった。彼はそれが沙織ではないことが分からなかった。彼は朋美の後をつけ朋美の住むアパートを見つけた。そして自分を虜にしていた「デブ女」の本名が加藤朋美であることを知った。沙織は「ミカ」と名乗っていた。それが偽名であることは彼には分かっていた。彼はインターホンを押し「ミカ」を呼んだ。「ミカ」は訪問客の男を見たが男が誰なのか分からなかった。男は
「ミカ、俺のこと覚えてるか?」
と言った。ここでの「ミカ」は加藤朋美なわけだから覚えてるも覚えてないもなかった。男は財布から3万円を出し
「やらせてくれ」
と言った。「ミカ」は
「自分は「ミカ」ではないしあなたが誰だか分からないし体を売る気はないしアパートまでつけてきて「やらせてくれ」なんて言うのは非常識にもほどがあるし帰らないのなら警察に電話します」
と言った。アパートの一室の扉の前で押し問答する男と「デブ女」。扉は開いていたが「デブ女」でふさがっていた。男はもう我慢の限界だった。「ミカ」にそんなことを言われるなんて信じられなかったし「ミカ」を見つけた時から睾丸はフル稼働し男根は勃起しまくっていたし偶然にもATMでお金を下ろしたばかりだったため「ミカ」とやることばかり考えており断られるなんて予想だにしていなかったのだ。

「3分以内に帰らないなら警察に電話しますから」
と言って「ミカ」は扉を閉めようとした。男は「ミカ」に飛び込んだ。男は学生時代水泳部に所属していなかった!「ミカ」は後頭部を強打し意識を失った。男は意識を失った「ミカ」を犯した。「ミカ」が意識を回復し叫び声をあげないよう「ミカ」の口の中にティッシュペーパーを詰めた。男は恍惚となって「ミカ」を弄んだ。「ミカ」の肌に落書きをし包丁とボディソープを持ってくると「ミカ」の陰毛を剃ることに夢中になった。「ミカ」はゆっくりと意識を回復していった。そして「ミカ」は自分が何をされ現に今何をされているのかを理解し、怒りにかられた。「ミカ」がただひとつ、死を回避することだけを目的として行動していたのなら殺されることはなかったかも知れない。「ミカ」はぐっと上半身を起きあがらせると男の頭をぶったたいた。「ミカ」は叫び声をあげているつもりだったが声は出ていなかった。彼女は男に弄ばれ現に今も弄ばれていることは理解していたが口の中にティッシュペーパーを詰め込まれていることは理解していなかったのだ。頭をぶったたかれた男は起きあがると「ミカ」に覆いかぶさった。男はその時自分の両手が包丁を握りしめていることを思い出したが後の祭りだった。
「刺すつもりはなかった。許してくれ」
と「ミカ」に言った。「ミカ」は口の中にティッシュペーパーを詰められ腹を包丁で刺され29才の若さでこの世を去った。5月9日迷宮の日だった。

「ミカ」である沙織は行方不明だった。少なくとも「デブ女」殺害事件以降沙織は姿を見せていなかった。彼女がいつ失踪したのかは分からない。見つけようとしたが見つからなかった。それも当然だった。そもそも朋美には双子の姉などおらず沙織=「ミカ」は池永がつくり出したキャラクターだったからだ。それゆえ「デブ女」殺害事件以前にも沙織は一度として姿を見せたことはなかったのだ。池永はそれと気付かずデリバリーヘルスを徹底調査し朋美そっくりの女を捜したが見つかるはずもなかった。実は朋美そっくりの女とは朋美だった、と池永は結論した。朋美そっくりの女を捜しても一向に見つからないのはそれが朋美であり朋美は5月9日迷宮の日にすでに迷宮入りしていたからだ。「デブ女」殺害事件と捜査官の池永は捜査のある段階で迷宮入りしたのではなかった。事件発生と同時に迷宮入りしていた。はじめから迷宮入りする以外に迷宮入りする方法はないのだ。ただ迷宮入りしていることにいつ気付くか、ということがある。しかし迷宮入りしていることに気付いたとしても何の意味もない。「デブ女」殺害事件が迷宮入りしていると言えるのはただ解決されていないからにすぎないのだから。そう考えると池永は自分と「デブ女」殺害事件が迷宮入りしているのかしていないのか分からなくなった。そして池永は晴れやかにこう思った。「デブ女」殺害事件を解決させさえすれば「デブ女」殺害事件も自分もはじめから迷宮入りなどしていなかったことが証明されるわけだ。それは迷宮入りしたとされるこの事件の被害者である「デブ女」と捜査官の池永を同時に迷宮から救い出すことを意味した。もちろんはじめから迷宮入りなどしていなかったのなら「迷宮から救い出す」という言い方は間違いなのだが。そしてそれによって朋美が息を吹き返す、ということもないのだが。少なくとも朋美が息を吹き返すまでは朋美が息を吹き返す、ということもないのだが。

男子トイレの個室で小便水に浮いたうんこの上で毛むくじゃらの下半身を丸出しにした池永がそんなことを考えていると、矢吹が廊下を走りながら
「池永さーん、池永さーん」
と呼んでいる声が聴こえた。男子トイレから離れるいい機会だと思い池永は男子トイレを出た。
「あっ、池永さん」
と矢吹は池永を認知すると池永の前まで走ってきた。
「どうした?」
と聞くと
リオデジャネイロは今日も快晴だそうです」
と矢吹は言った。池永は矢吹が冗談を言ったのだと思ったが笑わなかった。矢吹は
「あの」
と言い咳払いをひとつし
「デブ女のセックス日記を再度徹底調査してみたのですが」
と切り出した。矢吹が言うには彼女と性交渉のあった「デブ専」は当初18人とされていたが実は19人だった、さらに彼女はもう一人別の人物とも性交渉をもっており、さらに彼女はまた別のもう一人の人物とも性交渉をもっていた。19人を18人と見誤ったのは同じ名前の「デブ専」が2人いたからであり、もう一人別の人物を見落としていたのは彼が「デブ専」ではなかったからであり、また別のもう一人の人物を見落としていたのはその人物が女性だったからだった。しかし「デブ女」の「セックス日記」を再度徹底調査したのも、それによって新事実を発見したのも池永であった。それは池永が部下の手柄を無理矢理横取りする下司な浅ましい上司だったからではなく池永にとって池永は「デブ女」殺害事件捜査班の別名でもあったからだった。つまり池永は池永だったのだ。しかしそんな新事実は何の意味ももたなかった。「デブ女」の「セックス日記」はすでに虚構だと判明していたからだ。しかし虚構が事実を上回っていたわけではなく逆に事実が虚構を上回っていた、と言ってもよいのではないかと池永は思うのだった。虚構が空にあるのなら事実は地にあった。われわれは本来地から空を見るが池永は空から地を見なければならなかった。つまり空飛ぶ飛行機である「セックス日記」に乗って地である事実を見るのだ。池永はそれが必要だと思った。

そもそも「セックス日記」は彼女の「マスネタ日記」だった。彼女自身の楽しみのためにマスをかいていたように彼女は彼女自身の楽しみのために「マスネタ日記」を書いていた。このふたつは分かち難く密接に結びついていた。彼女の愛用していたワープロのキーボードからと彼女の「マスネタ日記」が保存されたフロッピーディスクからは彼女の布団やシーツやパンティーから検出されたのと同じ「マン汁」が検出されたからだ。そして「マン汁」は彼女が愛読した百冊以上の少女漫画からもテレビとビデオのリモコンからもアイドル歌手のビデオテープからも社員旅行や飲み会や彼氏とのデートで撮られたおびただしい数の写真からも検出されたのだった。さながら彼女の部屋は「マン汁の館」であり甘い蜜の匂いに吸い寄せられるように蜂のような毒針を持った彼女の見知らぬ男が彼女の部屋に押し入ったとしてもおかしくはなかった。おかしくはなかったが彼女は毒針によって殺されたのではなかった!しかし毒針が比喩ならば、彼女は毒針によって殺された、と言ってもよかった。彼女は毒針のようなナイフによって殺されたからだ。しかしやはり毒針とナイフは違う、と池永は思うのだった。ナイフを体の一部のようにしている者のナイフは毒針のようだし、毒針もナイフも刺す機能を備えているが、やはり違う!しかし比喩などどうだっていい、と池永は思った。そんなのは鼻くそだ!いや、鼻くそなんかではない、と池永はすぐさま否定した。比喩は比喩だ。

「セックス日記」は虚構でありしかも彼女の実生活をネタにした虚構であるがゆえにそれはより危険であり捜査の妨げになると脇にどけようとする池永もいたが池永は違った。池永は「セックス日記」に乗ったのだった。しかし何も出てこなかった、と言ってもよかった。そこから取り出されたものは彼女の人間関係の虚構化されたほんの一部分でしかなかった。日記の中の登場人物は彼女を含めたったの22人だった。モデルとなったのは仕事関係の男6人、元カレ3人、少女漫画の美少年4人、友達の彼氏、JR名古屋駅の駅員、若いバスの運転手、便利屋さん、芸能人3人、溝口容子、だった。それはあくまでモデルであり少女漫画の美少年は新入社員として彼女の勤める会社に入ってくるし、元カレは彼女をナンパしホテルに連れ込み、彼女が逆ナンする「危険な男」は若いバスの運転手であり、「カッコイイストーカー」に扮するのはJR名古屋駅の駅員であり、仕事関係の男と彼女はカラオケボックスでの偶然の出会いから関係を深め、溝口容子の彼氏と寝た彼女は溝口容子にレズプレイを強要される、彼女の引っ越しの手伝いをした便利屋さんは便利屋さんとして登場し彼女の下の処理をする、そんな具合だった。

虚構から事実を見つけ出すのは至難の技だったが忘れてはならないのは池永が「粘着テープ」と呼ばれるほど粘り強い男だということである。池永は彼女の「マン汁」のついた少女漫画を読みあさったし、タレント名鑑を隅々までチェックしたし、便利屋にしらみつぶしに電話をかけたし、彼女の携帯電話のメモリーから仕事のスケジュール帳まで調べ、彼女の友人たちに話を聞いて回り、少女漫画愛好会の飲み会にも参加した。それによって22人いる登場人物のモデルの大半の正体は判明したが、最後にふたり「危険な男」と「カッコイイストーカー」が残った。ここまで調べた池永はそのふたりにだけモデルがいないとは考えられなかった。池永は朋美の行動範囲を徹底的に洗った。「首に赤いアザ」があり「眉毛が太く喉仏が突き出」した「25才前後と思われる男」が「危険な男」であり「目の下にホクロ」があり「スラッとした長身」の「異様なほど黒い目」を持った「25才前後と思われる男」が「カッコイイストーカー」だった。池永はそれがJR名古屋駅の駅員と若いバスの運転手だということをつきとめた。JR名古屋駅の駅員は彼女の写真を見せると
「見たことがあるようなないような」
と言い若いバスの運転手は
「知ってるような知らないような」
と言った。池永は虚構の人物と夢の中で話しているような気がした、とその時のことを直美に話した。直美は池永がどうしようもなく発狂していることを知っていた。直美は発狂した池永をただ指をくわえて見ているわけにはいかなかった。もちろん池永に対しては何をやっても無駄だと分かっていたが池永が「迷宮入り」しているのは「デブ女」殺害事件が解決されていないからで解決されさえすれば池永を救い出せると直美は思った。しかし「デブ女」殺害事件が解決されても池永は発狂したままだった。池永には何もかも理解不能だったのだ。10月8日X∞の日池永は自殺した。何もかも理解不能だった池永が自殺などできただろうか(他殺ではないか?)とささやかれたが形としては自殺だった。

デ・ジャ・ブ 1

(4300字)

室町幕府にとって俺は存在しない。一人で突っ立っていると妙なことを考える、と砂袋吉樹は思った。フロントにはメモ用紙があった。306号室の客は女を連れて戻り、女は砂袋の目を見た。砂袋も見返したが何も起こらなかった。起こったとも言える。吉樹は女が吉樹を誘惑しベットになだれ込み燃えあがる光景に支配されたのだ。メモ用紙にいたずらにペンを走らせるといつも女性器が現れた。不思議だった。丸を描いて丸の中に縦に一本線を入れると女性器になる。楕円の中に小さな楕円を描くとやはり女性器になる。否。丸だけでよかった。縦に一本線を入れることも、もうひとつ丸を入れることもなかった。男のチンポは股間とくっついていて金玉とも切り離せないし、どうしても「根元」の問題に突き当たるが女性器は丸なのだ。「明日の朝、電話するとしたら、キタキツネ」吉樹はそう書いて、その文の意味の解読に努めた。その結果「明日の朝、電話する」が重要有意味で「としたら、キタキツネ」は蛇足であると判断した。ホテル・マーセラの電飾の美しさはネオン管を用いず電球のみで構成されていることに尽きる。絵画でいう点描画の手法だ。そんなことを平気な顔して語る男は服を着たまま窓ぎわに突っ立ち、窓の外を見ていたが外というより窓に映った顔、窓に映った室内を見ているのだった。裕紀は窓に映る男の顔を室内のベットから見ていた。306号室の客に内線で呼ばれ砂袋は控室で休憩している澤田に連絡し澤田にフロントを任せエレベータで三階にあがった。男は裕紀にフロントに電話するように言い、フロントの男を呼べと命じ裕紀はそれに従った。裕紀はよく人から不思議だと言われたし自分でも自分が不思議だった。ホテルマンのズボンを脱がせフェラチオした。服を脱ぐ気配のない男を見ているとそんな事の成り行きを想像してバルトリン腺液が腟を濡らすのが分かった。NBGというのは「人間をビニールシートで包みガムテープでぐるぐる巻きにしたもの」だ。男はそう説明した。砂袋は男はNBGになりたがっていると直観した。男はポケットに両手を突っ込んで窓ぎわに突っ立ったままフロントの男のことを考えていた。そんな上手く事が運ぶとは村瀬には思えなかった。単なる空想と村瀬は結論付けたがだからといって簡単に放棄できなかった。村瀬は女に謎をかけるように精液を口に入れて持って来いと命じた。ホテルのロビーはシンメトリーではなかった。狭くて縦に細長く片側にテーブルと椅子が並んでいる。フロントから玄関の自動扉に向って左側にエレベータがあった。手前が2号機で奥が1号機。

週刊誌を主な活動の場とするフリーライターの横溝達夫は取材ノートにロビーの見取図をささっと描いた。澤田が下番するのを待っているのである。林道に放置された車内から三人の遺体が発見された。身元はすぐに割れた。運転席に村瀬正男(48)、後部座席運転席後方に滝沢裕紀(19)、助手席後方に砂袋吉樹(23)。砂袋吉樹はホテル・マーセラの従業員だった。横溝は眠気に襲われ瞼の上から両目の端をぐっと押さえた。エレベータが稼動する音が聴こえて砂袋はメモ用紙から目をあげた。奥の1号機から女が出てきた。女は自動扉の方に目をやり自動扉のガラスの表面で砂袋と目が合った。女は向きを変えフロントに近付いた。砂袋の前で立ち止まると「トイレ、どこですか?」と聞いた。ホテルマンは裕紀の質問の意味が分からず女を見た。トイレなら室内にあるはずだが室内のトイレが壊れて使えないのか?フロントの奥に従業員用のトイレがあるがそこを案内していいか?女は室内にトイレがあることをど忘れしているのか?室内のどこにトイレがあるのか、と聞いているのか?もう帰るのか?ただ何でもいいから喋りたいのか?「トイレ、ですか?」と吉樹は聞き返した。「はい。トイレ」と女は平気な顔をして答える。「トイレは」と吉樹は言った。「ありますよ」306号室の客は「明日の朝、電話しろ」と言って砂袋に携帯電話の番号を渡してホテルを後にした。裕紀はトイレなどどうでもよくなり「卵、ありますか?」と聞いた。「卵?」と吉樹は聞き返した。「はい。卵」と女は言う。卵なら厨房にあるが料理人はもう帰った後だしまだ来ていない。厨房から取るのは面倒だし第一フロントを無人にしたくない。控室の澤田を呼ぶのも面倒だ。近くにコンビニがあるからそこに行けば手に入るかも知れない。砂袋はそう考えたが女の質問の意味はここでも了解しかねた。新規の宿泊客が入って来て砂袋はそっちに気を取られた。手続きを済ませると重信は802号室の鍵を渡された。宿泊申込書には偽名と偽の住所を記入した。裕紀はフロントの内側に入り込みホテルマンのズボンを脱がせフェラチオした。砂袋の精液は裕紀の口に含まれたまま306号室に運び込まれた。男は扉の開閉音とそれから窓に写った室内の光景とで女が戻ったことを知った。

砂袋吉樹は篠田登の存在を意識している節があった。事件を取材する横溝は事件に服従するしかなく、砂袋はそのことを知っているかのようだとシナリオライターの篠田は思った。ファミリーレストランで村瀬は裕紀に吉樹をフェラチオするように命じ、吉樹に裕紀にフェラチオされるように命じ、二人に同時に席を外させた。己の謎の死を謎の死にするためには謎を解くキーを握る者を生かしておくわけにはいかない。村瀬は裕紀と吉樹のドリンクに睡眠薬を混入した。二人はトイレから戻り吉樹はドリンクに手をつけたがすぐに「まじ」と言って吐き出した。裕紀に「まずいから飲むな」と命令した。二人は睡眠薬の効果で車に乗り込むと早々に眠り込み村瀬は林道に車を止める。ホースで排気ガスを車内に誘導し三人は排ガス自殺死体となった。篠田登は自身のシナリオを砂袋の「まじ」によって破壊されたのだった。村瀬はそこで気付いた。初心を思い出した、と言うべきか。自分が望んでいるのは単なる「謎の死」ではなく「強烈で、スキャンダラスで、屈辱的な死」であることを。だいたい三人きれいに車内で排ガス自殺死体になるというのは「謎の死」どころか単なる「集団自殺」だ。篠田登は村瀬はそう考えると考えてロビーの見取図を描いたノートを閉じると部屋で有料のエロ番組を見ようとエレベータで6階にあがり606号室に入った。802号室の吉岡美穂(本名・重信政子)はチェックインの時に見たホテルマンと若い女の様子に妄想をかきたてられていてもたってもいられなくなり部屋を出た。政子は部屋の錠が開かないとフロントの男に苦情申し立てた。砂袋は内線で澤田を呼び澤田にフロントを任せ政子とエレベータで8階にあがった。政子の荷物は部屋の中にあり廊下に出ていなかったが砂袋は怪訝がらず政子から受け取った鍵で難なく開錠した。政子は「そこじゃなくて、トランクの錠が開かなくて」と言って砂袋を部屋の中に誘導しホテルマンのズボンを脱がせフェラチオした。砂袋がぜんぜん戻って来ないので澤田はそんな光景を思い浮かべ勃起した。フロントのメモ用紙には複数のマンコが描かれその下にへたくそな字で「明日の朝、電話するとしたら、キタキツネ」とあった。澤田はそう書かれたメモ用紙を丸めて足下のゴミ箱に捨てた。

野草研究家兼使用済コンドームコレクターの秋吉里子が事件の第一発見者となった。秋吉は肉がたるんだ楕円の中に楕円がある「常時開放型」のマンコの持ち主で朝早く起きて野草を摘むのと使用済コンドームを収集するのが(一カ所に6個がこれまてまの最高記録)日課だったが死体を発見するのは初体験だった。その死体はお尻丸出しでうつぶせに倒れ肛門にいちじるしい損傷が認められ血が肛門を中心に尻全体に付着していた。傍らに陰毛の多数貼り付いた長さ20センチほどのガムテープと肛門をほじくるのに使用されたと思われる木の枝が数本、男が着用していたと思われる下着とズボンが放置されていた。週刊誌を主な活動の場とするフリーライターの横溝達夫は秋吉里子を取材した際に録音したテープを聴きながら車を走らせていた。殺害されたのは村瀬正男(48)だった。検視の結果死因は肛門とは関係がなかった。肛門をほじくられたのは抵抗の痕跡の欠如から死後だった。自身の「強烈で、スキャンダラスで、屈辱的」な死体を思い浮かべて村瀬が不気味に微笑するのを窓ぎわに窓を向いて立たされた裕紀は見た。村瀬は口の中の精液を卓上の灰皿に吐けと命令し、裕紀が吐くとこっちに来いと命令し窓ぎわに窓を向いて立たせ村瀬は室内中央の椅子に座った。煙草に火を点け吸い、煙を吐く。灰をホテルマンの精液の入った灰皿に落とす。裕紀は窓に映る室内の光景を見ていた。村瀬を殺害した砂袋吉樹は村瀬が殺害の報酬に用意しコインロッカーに入れておいた一千万円入りのボストンバッグを手に入れるには村瀬の肛門に入れられたコインロッカーの鍵を取り出さなければならずそれで村瀬の肛門をほじくった。裕紀は一部始終を砂袋の傍らで見ていた。吉樹は村瀬殺害を、裕紀はその一部始終を見ていることを、依頼されたのである。銀行の防犯カメラに映らないよう裕紀と吉樹は車内で待っていた。事件はその猟奇性から猟奇殺人とも快楽殺人とも言われたがその見方は徐々に変化していった。名古屋駅構内を三人は互いに素知らぬふりをして歩いた。吉樹と裕紀は現金の入ったボストンバッグを村瀬がコインロッカーに仕舞うのを見た。駅のトイレで村瀬が最後の脱糞を済ませるとホームセンターに車を走らせた。裕紀と吉樹はホームセンターでガムテープとゴム手袋を買った。駐車場に止めた車の中で村瀬はズボンを下ろし裕紀と吉樹の前に肛門を向けた。裕紀にコインロッカーの鍵を渡し裕紀は受け取ったコインロッカーの鍵を村瀬の肛門にねじ込んだ。肛門が呑み込んだ鍵を吐き出さないようガムテープを千切って村瀬の股間に貼りつけた。村瀬は車を走らせ道は林道になった。立ち小便するために村瀬は車を止めた。それが合図だったかのように「俺も」と吉樹も下りた。吉樹は手ごろな石塊を手に取りそれで村瀬を背後から襲った。後頭部を直撃するはずだった石塊は村瀬が振り向いたことで額を打ち砕いた。失禁するとともに死亡した村瀬がズボンと下着を脱がされ肛門をほじくられたのはその後だった。鍵は奥の方まで入り込んでいたため肛門はいちじるしい損傷をこうむることとなった。鍵を手に入れた吉樹と裕紀は村瀬の車で逃走した。車は遺体発見現場から5キロの車道に乗り捨てられていた。車内から村瀬の血とうんこの付いたゴム手袋が発見された。